2007年05月02日

我が青春の山旅

我が青春の山登り (登攀記録)
先程より左手の甲から流れ出した汗が前腕筋の谷間を流れ、肘から空間に雨坪の様に落ちていく。オーバーハング出口の突起に胸を圧迫されながら、左手は僅かな岩の突起を求め、必死に岩肌をまさぐり回している。
数ミリの岩角を掴む指から上腕にかけてはもう限界に近づき痙攣を始めた。
打ち込んできた三本のハーケンはどれも半分しか岩の割れ目に食い込まず、遥か下には俺の落下を待つかの様にV字状の谷が大地を切り裂いている。
こんな無意味に近い行為に、此れほど没頭するのは何故だろうか。やっと左手の指先が僅かな岩の凹みに反応し、指の第一関節が岩角に掛かった。左手に体重を移し三十センチ程身体を引き上げ、今度は痙攣を起こし感覚が麻痺している右手で、アバラ骨の様な岩肌に手掛かりを求めてまさぐり回し、僅か一メートルの高さを勝ち取る為に体力の限界戦い、死と隣り合わせの時間が今日も続いている。
ロマンを完成させるべき壮大な夢を持ち、墜落と言う悪夢に魘されながらこんなバカげた事に青春の大部分を賭け、山の世界に迷い込にでから、もう何年の歳月が過ぎただろうか。
普段は生きる為に努力などしたことない男なのに。
初登攀と言う名誉を得るため?…… 自分自身の栄光のため?……
この記録は 1960年前半より1970年台、十数年山と戦い、二百回以上の登攀の中で、記憶に残っている登攀記録の一部を書き上げた物である。

山 登攀の世界に
もうじき一九才の誕生日を向かえようとしている。
富士山の前衛峰の愛鷹山山塊、大岳ヤエン沢の春の出来事であった。
落ち口まで後数メートル。飛沫で濡れた岩が急に傾斜を増し滑り易くなって来た。足下二十メートルには、白い泡が飛び散っている滝壷が待ち構えている。
墜落、そして死が脳裏を過ぎった。極度の緊張の中、急に冷たい物が背筋を流れ、振動を始めた足は次の一歩を踏み出す勇気が湧いて来ない。
軽はずみに無謀な事に挑戦した事を悔やみながら、濡れた身体で何分間へばり付いていただろうか。
意を決し小さな岩角に足を置き、手は僅かな突起を探し岩肌をまさぐりながら必死に爪を立て、落ち口を目指してナメクジのように高さを稼いで行く。
ヤッター。よろける様に滝の落ち口に座り込む放心状態の身体は、心臓の鼓動だけがやけに元気が良い。
僅か二十五メートルの滝登りが・・、あの恐ろしかった何分間のゲームが・・、俺と山との命を賭けた戦いの幕が開いた。
「一九六一年」ひと月働いて、多い月でも一万五千円。冬山に何とか使える登山靴が一万二千円。米軍放出の羽毛シュラフが五千円。着る物、その他の装備を揃えるに約八千円。なけなしの蓄えを叩いて最低限の登山装備を揃えて、静岡県で有名な先鋭的登山クラブの門を叩いた。
会長以下現役会員が八名。最初の山行は近くの岩登りのゲレンデに連れて行かれ基礎訓練。ザイルの使い方、三点支持、確保技術等を先輩に怒鳴られながら教わるが、麻のザイルを握る俺の手の平は、皮が剥け、ザイルが手の平を動く度に激痛が走る。
夏から秋にと毎週の様にクラブの仲間達と岩壁登攀に明け暮れ、冬山合宿に備えて手袋を着け、アイゼンを履いての登攀練習も十分こなした。
十二月三十日〜一月六日まで、待ちに待ったクラブの登攀合宿が北岳バットレスで行われた。冬の岩壁に挑むのは初めてで、期待と不安を抱きながら四十キロ以上ある重さのザックを背負い、夜叉神峠を抜け深沢より辛く長い吊り尾根下部を登り、ボーコンの頭にベースキャンプを築いた。
尾根上は風通しが良く地吹雪で、テントが今にも飛ばされそうになったり、南アルプスでは珍しいドカ雪が降ったりで、さんざんな冬山合宿だった。
五日間で、かろうじてバットレス第四尾根から、北岳の登頂に成功したが何か物足りない。期待を裏切られた様な重い足取りで下山途中に、リーダーのIさんから「小正月三日間休めるので、八ヶ岳に行かないか」と、声を掛けられた。
Eさんを交えて三人で八ヶ岳連峰、阿弥陀岳広河原奥壁の登攀を敢行する事に即座に決まり、新たな夢と目標が出来た。
定職を持たない俺は、合宿で残った食料をもらい、交通費も浮かせる為に、静岡に帰る仲間達と甲府駅で別れ、一人で八ヶ岳に向った。
赤岳や横岳の一般ルートから登頂。また阿弥陀の南稜から広河原奥壁の偵察を兼ねて登りながら、仲間の入山して来る日を指折り数えて待つが、毎日凍り付いたツエルトの中での一人暮らしは寂しいし何か侘びしい。
厚いブタ肉を土産に先輩が入山してきた来た。
今夜は久しぶりの御馳走と賑やかな夜を迎えた。灯油コンロが力強く炎を上げ、狭いツエルトの中は美味そうな匂いが充満し、否が応で食欲をそそる。何日振りかのミソ汁や生野菜にむさぼり付いた。

厳冬の八ヶ岳 広河原奥壁の登攀
成人の日が明けた。小雪が舞っているが、登るには余り支障が無さそうなので、テントを後に広河原沢に入って行く。所々腰まで潜るラッセルにあえぎながら、ただひたすら単調で辛い作業を繰り返すだけで楽しく無い。
ルートを間違えたのか、ナダレの危険を感じさせる急な沢を横切らなければ目的の岩壁基部に到達出来ない。
先頭のI氏が腰までの新雪を掻き分け対岸の潅木に無事達した。俺はラッセルされた沢を急ぎ足で渡り始め、中間部に差し掛かった。「ビシッ」鈍い音がしたと同時に、対岸の潅木がゆっくり上に動き始めた。俺の身体が立ったまで雪崩れに捲き込まれた事を直に知るが、如何する事も出来ない。
二十メートル位流されただろうか。下身体に凄い重圧が加わり俺の身体は完全に停止した。上を見れば、四十メートル上流に雪の段差が出来ている。恐れていた表層ナダレを引き起こしてしまったのだ。
硬く締まった周りの雪を両手で必死に掻き、何とか脱出に成功したが、後十メートル流されれば氷爆を掛けた滝壺まで落ち、生きて還れなかっただろう。
震える足で対岸の潅木まで登り着いた。Iさん達はしきりに心配してくれるが、悪運が強いのか、俺の身体は何処も傷ついていない。
少し登ると辺りが急に開け、目の前に黒々とした高さ三百メートル程の奥壁が姿を現した。此処まで大分時間を費やしてしまったが、今日中に阿弥陀岳の頂上まで辿り着けるだろうか。
新品のナイロンザイル二本の先端が、先輩のTさんに渡された。二本のザイルの端は私とEさん。確保頼んだぞ、と言いながらIさんはアイゼンの前爪二本を細かい岩の突起に架け、ガチャ、ガチャいわせ、攀じ登って行く。
三十五メートル位ザイルが伸びた。「イイゾー。」声がかかり、Eさんと私は、三メートル位の間隔を保ちながら同時に登りだす。厚手の手袋をした指は、手掛かりを掴むのに苦労する。トップでない気楽さか、半ば強引に攀じ登る。
次のピッチは右上にルートを選び、岩と雪のミックスされた壁をIさんが、雪を払いながら快調にザイルを伸ばして行く。後に続いて登って行くと、畳一枚程の雪に埋れたテラスがあった。 時計はもう午後二時、遅い昼食を少し口に入れ先を急ぐと、砂岩で脆そうな垂直の壁が前面に立ちはだかる。
ハーケンを二本打ち、Iさんの確保体制に入るが、なかなかザイルが伸びていかない。トップのIさんはこの寒さの中、手袋を脱ぎ素手で登り始めた。
視界から姿が消え、アイゼンの音だけが響き渡るテラスで待つこと一時間。
「イイゾー」の声が掛かった。墜落の危険が大きそうなので、一人づつ登ることにして、私から取付く。岩壁に悪態をつきながら、必死の思いでトップの所まで這い上がる。Eさんも「落ちる、ザイル張れ。」などと、大声を出しながら登って来た。次の四十メートルは見た目より簡単にパス出来た。
もう時計が十六時を指している。天候も悪いせいなのか、あたりが薄暗くなって来た。 急がないと。だが、なかなかザイルは伸びない。やっとトップから声が掛かり登り出すが、十五メートルも進むと、もう何も見えない暗闇になってしまった。
「ビバーク」こんな所で。こんな体勢で。座る場所さえも無い場所に立ったまま、余り効いていないハーケン一本にぶら下がり朝を迎えるなんて。
夜半頃より風も強くなり体感温度がどんどん下がっていく。「寒い」先程からアイゼンを履いている足先が痛く、感覚が無くなって来ている。足踏みをしたり、岩に足をぶつけたりして辛うじて感覚を保っている。
時々、金属音が暗黒の世界に響きわたる。 頭上二十メートルに居るIさんが、俺と同じ様にアイゼンを岩場に蹴り付けているのだろう。その度、雪の固まりが俺のヘルメットから肩にかけて襲い掛かって来る。足下十五メートルに居るEさんからも声がかかってくるが、風で声が舞い会話が出来る状態ではない。
ふと、昼から何も口にしていないのに気付き、ヤッケのポケットから食べ残し
のチョコレートを出して口に入れるが、カサカサの喉は、容易に受け付けてくれない。
明けない夜は無いと言うが、「本当に朝が来るのだろうか。」この過酷な自然の中でどうする事も出来なく、ただ朝を待つしかない自分が情けなく感じる。
なんと無く空が白んで来たようだ。十五分もしない内に、ゴソゴソ動く仲間の姿が目に入ってきた。 待望の朝が訪れたが、疲労と寒さで、ロボットの様にぎこちない身体を動かし始めるまでに、一時間も費やしてしまう。
動きの悪い手足で、やっとIさんの所まで這い上がると、Iさん「凍傷で指の感覚がまったく無い」と言う。 暫らくして、Eさんも登って来た。
彼も足を凍傷にやられたらしく痛そうだ。 無傷の俺に、リーダーのIさん「八木下、お前にトップ任す。」 駆け出しの俺は、今まで冬の岩壁でザイルトップなど一度もした事が無いのでオドオドしていると「大丈夫だよ。」リーダーのIさん、笑顔でザイルの端を渡してくれた。
大して困難な所も無く、二ピッチ八十メートル登ると待望の阿弥陀岳の山頂二八〇七メートルに立つ事が出来た。 正面に赤岳、左に横岳、右に権現岳が、朝日を浴びて屏風の様に立ちはだかっている。
横岳にひときわ大きな氷爆が掛かり、その上に黒々とした大同心の岩峰。この素晴らしい景観に心を奪われ、見とれながらザイルを手繰っていると先輩たちも登ってきた。
「ご苦労さん」と手袋を外し差し出したIさんの指はロウ色に変わり、いかにも痛々しそうだ。凍傷を実際に目にするのも初めてである。Eさんも、足の先がズキズキと痛むと訴えているが、どうしてやることも出来ない。
槍の立つ麻利支天より御小屋尾根を少し降り、急な潅木の中を広河原出会い目がけて急降下すると程無く出会いに降り立つ事が出来た。カチカチに氷付いたツエルトを撤収して急いで下山に移る。
茅野の病院で、凍傷の手当ての為にEさんの登山靴は見事切り裂かれ二人とも指を切断するまで進んでいないとの事で、胸を撫で下ろす。
短い山行であったが、ナダレに流されたり、着の身着のままでマイナス二十度を超える寒さの中で立ったままで過した地獄のビバーク、冬の岩壁で初めて経験したザイルのトップなど、色々の経験を積まされ、山の怖さと偉大さが身にしみた二日間であった。
一九六二年の冬は先輩の凍傷が回復せず、またパートナーに恵まれず一人で富士山に登ったり、丹沢の沢や伊豆の城山で岩登りを繰り返して過したが、何か物足りない日々を送っていた。

穂高 夏山合宿
二十才に成った俺は益々山の世界にのめり込んで行き、家族にも呆れられ、半ば公然と山に出かける事が出来る様になって来た。
所属している登山クラブのこの年の夏合宿は穂高に決まり、涸沢を基点にして滝谷や奥又白の岩場を登る事になった。 昨年の夏一人で槍ヶ岳から前穂高岳まで縦走したが、穂高の岩壁を登るのは初めての経験であり、期待で心が躍っているのが自分でも良く分かる。
今だ定職を持てない俺は、上高地までの交通費や合宿費用を作る為に、日当千円の建築現場でのアルバイトに精をだし、山に行く以外は仕事を休まず、真面目に合宿を待った。合宿が近づくと共に、新人を含めて八名いた参加者が、一人欠け又一人と減り、最終的には五名になってしまい、釈然としない気持ちで夜行列車に乗り、富士市より甲府経由で穂高に向かった。
早朝着いた上高地は夏だと言うのに肌寒く、長袖でちょうど良い。
軽い朝食を取り、涸沢を目指して梓川沿いの道を明神、徳沢を通り、三時間かけて平坦な道を横尾まで来た。 あの肌寒さは何だったのだろうか、全身から汗が噴出してくる。横尾谷に入って暫らく行き谷を横切る丸木橋を渡っている時、「大休止。」と言う大声がリーダーから掛かってきた。 少し早いが昼飯を食べる事になり、各自用意した弁当を出し合い無礼講のパーティ。瞬く間に胃の中に収まって後は昼寝。心地好い風が頬を撫でていく。
「イクゾー」リーダーの声がかかり我に帰った。
四十キロ近い重さのザックを担いでの涸沢までの登りは辛い。三十分歩くと五分の休みを繰り返して行くと雪渓の末端が見えて来た。 あと少しでこのくそ重いザックから解放される。疲れと肩に喰い込むザックの重みで視界がだんだん狭くなっていく。精も根も尽き果てて、雪渓のすぐ下のテント場に着いた。
ザックを背にして寝転んだまま誰一人動こうとしない。誰かが「テント張ろうか。」と言い出したが、誰も動こうとしない。
岩登りは、この一年でかなり上達した。一日目は新人を連れて北穂高の東稜、二日目はリーダーと組み滝谷のP二フランケの登攀、三日目は予定を変更して全員で奥穂高のジャンダルム飛騨側の登攀と、楽しい岩登りが三日間出来たが、何故か充実感が無く物足りない。 下界にいてもどうせアルバイト生活。
自分の食い扶持と少々の小遣い、それに山行きの費用が出来れば上等の生活だから、この涸沢で誰にも束縛されずに居たいと漠然と考え始めた。頭の中は坂道を転がるボールの様に止まる所を知らない。
合宿打ち上げの夜リーダーに「このまま暫らく涸沢に居たいから、テントとコ
ンロを貸して下さい。」と申し出たら、驚いた顔で「いつまで?」と。「二十日迄。」と答えると、暫らく考えてから「いいけど家の方はどうする?」すかさず「先輩、電話しておいて下さい。」と御願いをする。

涸沢 貴族
今日もいい天気だ。下山する四人を見送り晴れて涸沢生活が始まる。
今朝迄は四人用テントの中で、むさ苦しいイモ虫五匹が互い違いに眠り、重なり合った窮屈な生活だったが、今日からは解放され、僅か一坪では在るがこのテントの空間は今から半月間は俺一人の世界だ。 誰にも束縛されず、確なる計画が在る訳でも無く、少々暇を持て余す以外は快適な生活だ。ただ一つの心配は食料と燃料の調達だった。
背当てに使用していたダンボールに大きく「求む食料、灯油」と書きテントの入り口に架けて置く。 乞食同然ではあるが、此処で生活して行く為の最も大切かつ重要な、労力を伴わないが大切な仕事である。
テントの看板を見て登山者が笑いながら通り過ぎて行く。早く鴨がネギを背負って来ないかと少し離れた大きな石の上で寝転び待ち構えていると、合宿の疲れからだろうかいつの間にか眠りの世界にと引き込まれてしまった。
登山者が歩く靴音で目が覚めた。すごく長い間眠っていた様な気が、するが三十分足らずの睡眠だった。 テントの前にヘルメット位な大きさの物が置かれているではないか。眠っている間に鴨がネギを背負って来たのだ。大急ぎでテントに戻りさっそく中味の点検をすると、味噌漬けのポークステーキが二枚と白米が少々とトマトが三個。大収穫だ。すぐ上には天然の雪渓冷蔵庫が在るし、最高な環境である。
此処涸沢は標高二千四百メートル。正面に日本で三番目の高峰奥穂高岳が聳え、左にはビーズ状な北尾根が前穂高岳山頂まで続き、右からは横尾尾根が北穂高岳に競り上がっている。
足元からは夏でも雪渓が岩峰の間に食い込み、時間毎に光と影が微妙に景色を変化させていく。昨日までは、岩壁を攀じる事、食う事、眠る事だけしか頭の中に無かったが、今日は、なんと余裕のある日だろう。
夕方になれば、前穂高の北尾根が屏風の頭から八峰、六峰、四峰と順番に光を失い、最後に山頂を照らすと、まだ明るさが残る稜線上に、白い星が一つまた一つと現れ始め、完全に陽光を失った峰々の上には、星が広い空一面を乱舞する世界が始まる。深い眠りから覚めると、まだ薄暗い涸沢カールの上には穂高の岩峰が朝日を浴び真っ赤に染まり、今日が始まる。時計とは無縁の気ままな生活が三日間続いた。
突然我がテントにウイスキーを抱えて夜の訪問者がやってきた。
顔面ヒゲ面の何処にいても山男と判別が出来る三十才位の男だ。ボソっとした言葉で自己紹介を始めた。「岐阜から来ているAだが、明日北穂滝谷のクラック尾根を一緒に登らないか?」まだ駆け出しの俺だが岩壁登攀にはかなりの自信を持っていたので「行きましょう。」と即座に答えた。
彼は今年で夏場の涸沢は四年目で、俺と同様定職も無く、この生活を毎年楽しみに生きているのだと盛んに言う。俺は酒には縁が無いが、Aさんの飲みっぷりは凄く、瞬く間にウイスキーの瓶が空になるが平然としている。
彼の二日酔いが心配だが六時出発と決め、彼は自分のテントに帰っていった。
これが合宿前に先輩が話していた、テント村に巣食う「涸沢貴族」なのか。
四日ぶりに登攀が出来る嬉しさでウキウキしながら中々寝つけない夜である。
肌寒い朝六時少し前に彼がテントにやって来た。「宜しく御願いします。」と声をかけ北穂沢を登り始めた。二日酔いなんて心配した俺が間違っていた。
けっして早い足取りでは無いが、とにかく急な斜面でも立ち止まらず景色にも見向きもせず黙々と歩を進めて行く。俺は後に続くが息切れがひどく、何度となく「休みましょう」と口元まで出掛かるが我慢して着いて行くだけ。
とうとう北穂高の山頂まで一度の休憩も取らずに登ってしまった。
山頂よりキレット側に少し降り、滝谷A沢のガレ場を少し下降して取付きに着いた。 見上げるクラック尾根は名前と似着かず完全な岩壁である。
ザイルの両末端をお互いに結び終わると「トップする?」と聞いたので「どうぞ。」と答えると、ニヤっと笑い登りだした。「巧い」今まで見たことも無いテクニックを使い、瞬く間に三十メートル上のテラスまで攀じ登ってしまった。
俺も自分のテクニックにかなり自信が有ったが、あの技術を見せ付けられたら、自尊心が音を立てて崩れた。「いいよ」と声がかかり俺の登る番が来た。
ただがむしゃらにテラスに向かい攀じる。彼の岩登りのテクニックには完全に脱帽させられ、以後も彼にトップをして貰い、登攀技術をじっくり観察しながらの登攀も又楽しい。
井の中の蛙とはこう言う事なのだろう。俺みたいにクラブの仲間とばかりで岩登りをしていると技術の向上も図れず、人は皆雲の上の存在に成ってしまう。
焦るなといってもあの技量を見せ付けられては。
僅かな時間でクラック尾根の登攀も終わり再び北穂の山頂に登って来た。
ザイルを巻きながら、彼は俺に向かい一言ボツリと呟いた。
「俺達は山で死んだら負けだよ。」血気盛んだった俺の胸の内を見透かされた様に突き刺さってきた。
次の日もAさんに誘われるが侭、奥又白谷の岩場では最も困難と言われている、前穂高東壁Dフェースに出かけ登攀に成功した。
「毎日が日曜日」の涸沢生活終わりに近づいて来た。。
旧盆が終わるとテント村も急に静かになり、食料や燃料の調達が非常に困難になって来た。そろそろ俺もこの快適な生活から離れなければ成らない。此処で出来た友人は、来年の再会を約束して下界に降りていった。
山に登る者、岩を攀じる者、ただテントの周りで景色だけを楽しんでいる者など様々な人種が、勝手気ままに過している涸沢カール。
俺達みたいに長期に渡り此処で過す者達を一般登山者は「涸沢貴族」と呼んでいるらしいが、俺に言わせれば「涸沢奇族」である。
下山の日がとうとうやって来た。あの、毎日が何かに追われた様な下界の生活に戻るのが凄く憂鬱で仕方ないが、後髪を引かれながら重い足で穂高にさらばの唄を口ずさみ重いザックを肩に上高地に下った。
帰宅後テントの返還に行った時、得意顔でAさんと難しい岩壁を登った事をクラブの長老に話したら、規約違反だと怒られ、散々嫌味を言われ頭に血が上り即座に退会願いを出してしまった。
「より高く、より困難を求めて」一人立ちする日がやって来た。それと同時に家族と離れて六畳一間のアパートに移り住む事になった。
単独で、また気の合った仲間と、山から山へと渡り歩く生活を続け、お金が無くなれば、山小屋の番人。梅雨時の一ヶ月は、収入の良い松本市の生糸会社のボイラーマンなど、アルバイトで生計を立てながらの貧困生活続いた。
ある寝苦しい夜、私は布団の中で、何処か知らない岩壁を、青空をバックにザイルも付けずに攀じ登っている。
無謀とも言える単独登攀を行なっているのである。 案の定、一瞬にして身体が岩から離れ、空中に投げ出された。頭を下に、凄い勢いで落下して行く。胸から頭にかけてスーッと血の気が引いて行くのが感じられる。
「夢、夢だ、これは夢なのだ。」夢だと感じながらも、身体はなおも真逆さまに落ち続けて行く。何百メートルいや何千メートル落ち続けただろうか。足が布団を叩く音で目がさめた。全身に汗が吹き出ている。
不快な脱力感が全身を襲う。 こんな悪夢を見た数日後、若き二人のアルピニストが、穂高の岩壁登攀目指してやってきた。

屏風〜四峰〜右岩稜〜前穂高岳 の連続登攀
徳沢の橋のたもとで山を見上げている、私と山仲間のS君である。
梓川の対岸から空を突き破る様にそびえる前穂高岳。それを切り裂く様に深く切れ込んだ豊富な残雪を抱えた奥又白谷、それらをかこむ大岩壁群が、正面よ
り朝日を浴びて金色に輝いて眠不足の目には眩しい。
この夏の「メイン イベント」屏風岩東壁から前穂高四峰正面壁を登り、前穂高東壁右岩稜を連続登攀して前穂高山頂に至る、計画が実行されようとしている。 いつまでも見とれている場合ではない。
仕事の都合で三日後には下山しなければならないパートナーと、梓川沿いの平坦で退屈な道を,歩く事五十分横尾に着いた。
左から涸沢、右から槍沢の合流する、槍ヶ岳と穂高岳登山の分岐点だ。
左上に目をやると垂直の大岩壁がそそり立っている。それが前穂高から梓川に落ちる北尾根末端の花崗岩の屏風岩だ。
一、五リットルの水を水筒に入れ、岩場の取付きを目指すも、潅木の中は踏み跡もなく視界もさえぎられ、自分が何処に居るのか見当も付かない。そのうえ蒸し暑く、身体からは汗が滝のように流れ落ちて行く。水を飲みたいが、明日の朝まで水の補給は出来ないので耐えるしかない。
我慢だ、忍耐だと心に言い聞かせ、ひたすら登っていくと、突然目の前が開け屏風岩が頭の上に覆い被さってきた。
安全ベルトを身に付け、ザイル、カラビナ、ハーケンで完全武装を整え、アタックを開始すると、百メートル程で広いバンド状テラスに登り着いた。
ここから垂直の岩場が始まる。先駆者の残したハーケンが岩の割れ目に沿って打ち込まれている。
傾斜は強いが、残置ハーケンの助けを借りて登るので、思ったより楽に登ることが出来るが、ザックが徐々に肩に食い込んで来て辛い。 その上に真夏の太陽が、身体の水分を最後の一滴まで奪い取っていく。
水、水、水。喉の渇きとの戦いに耐え切れず、一口また一口、とうとう水筒の水は半分程になってしまった。 三百メートル程登ると傾斜が少し緩んで来た。
後七十メートル、左上にある潅木帯を目指し、こまかいホールドとスタンスを拾いながら攀じ登って行くと、岩の割れ目から水が僅かに染み出している。
夢中で岩肌に口を付けるが、コケと砂が口の中でジャリヽ絡むだけで、喉の渇きを満たしてくれる量で無い。水飲みは諦め、左上にスラブを登ると太い潅木に達し、最初の課題、屏風岩の登攀終了した。
眼下には、赤い屋根の横尾の山小屋が、マッチ箱より小さく見える。登攀用具をザックにしまい、ハイ松の中を掻き分けながら三十分、今夜の寝ぐら、屏風の頭に予定どうり、陽が沈む前に着く事が出来た。
疲れた。とにかく眠い。昨夜は汽車の中で殆んど眠っていないのだから無理もない。 残り少ない水でスープの殆んど無い即席ラーメンの夕食をすませ、早々
にハイ松の中に下半身を潜り込ませると、たちまち目が閉じてしまった。
何時間眠っただろうか。 ふと目覚めると、星、星、星、目の前が星の洪水。
星明かりで、槍ヶ岳から穂高の稜線が黒く浮き上がって、メルヘンの世界に迷い込んだようだ。 暫らく星空のメルヘンの世界を楽しんでいたが、いつの間にかまた深い眠りに入ってしまった。
「朝だー。」モルゲンロートに輝く槍ヶ岳、穂高の峰々。目指す前穂高岳は、右に吊尾根、左は奥又白谷をはさんで明神岳、正面がこれから辿る北尾根を従え、堂々と聳え立っている。
朝食は、残した水を全部使い切り、昨夜より少しはスープの多いラーメンを腹に流し込み、涼しいうちにと快適な夜を過せた寝ぐらを後にする。
ハイ松が足に絡み着き歩きにくい北尾根を、八峰、七峰、六峰を越え、五峰とのコルより残雪の豊富な奥又白谷に降り立つ。 雪渓から流れ出る冷たい水で、十分過ぎる程に喉の渇きを癒してから次の獲物を目指し動き出す。
雪渓は急では在るが流れる風が涼しく、昨日の暑さが嘘のようだ。暫らく雪渓を詰めると、右側に高度差三百メートル程の四峰正面壁が姿を現した。
傾斜も余り強くなく、下半分は小さなブッシュが目立ち、登攀意欲が余り湧かないが計画は実行に移さなければ、と気乗りしないがアタックを開始する。
比較的やさしい登攀が百二十メートル、チョット難しいオーバーハング気味の所をハーケンの力を借りて右上に四十メートル登ると、傾斜もガクンと落ちたブッシュ混じりの岩場が四峰の頭に続いている。四峰正面壁に取付いてから僅か二時間で登ってしまった。
残すのは前穂東壁だ。三峰のコルより再び奥又白谷へ下り、急な雪渓を落石に気を付けながら慎重に左上すると、今回の山行きの最後を飾るのにふさわしくスッキリとした右岩稜の基部に登り着いた。ガレ場には名も知らない小さな黄色い花がゆれ、上には覆い被さるように明るい右岩稜が濃紺の空ににクッキリと浮かび上がり、否が応でも登攀意欲をそそる。
「いくぞー。」友に声を掛けてアタック開始。「あと五メートル。」友から声が掛かる。余りの快適さに、ザイルの残りも気にせずに三十五メートルも登って来たのだ。少し上に楽に立てるテラスがある。そこまで攀じ登り、友が登って来るのを確保しながら鼻歌まじりで待つ。
振り返ると、徳本峠から常念岳、大天井岳に続くなだらかな稜線スカイラインを描き、眼下には、昨日の早朝に橋のたもとで見上げた徳沢と梓川が横たわり、凄い高度感である。昨日から一歩又一歩と自分の足を動かし、また攀じ登り、良くこんなに高い所まで来たものだと。
次のピッチは、かぶり気味でなかなか手強い。尺取虫の如く、垂直の壁に手掛かりを求めて、ジワジワと高さを稼いで行く。 手掛かりになる岩角が遠い。
伸び上がる様にして、強引に岩角を掴み体重を掛けた途端に、岩が剥がれ落ち宙に舞った。岩壁が凄い勢いで目の前を登っていく。少しスピードが緩んだ様な気がしたと同時に、胸に強いショックが来た。
俺の身体は、友より二十五メートル上に宙吊り状態だ。胸が少し痛むが身体は何処も岩角にぶつけていない。 八メートル上には、剥げ落ちた岩の傷跡が色を変え、生々しく残っている。
友の確実なる確保に助けられた。再び落ちた地点まで登り直すも、ガタガタと足の震えがなかなか治まらない。
初めて岩場での墜落。動揺した心を抑えながら、今度は細心の注意を払い慎重に登り切ると傾斜が落ち楽になって来た。尚も易しい岩場を二ピッチ、ザイルを伸ばして行くと、右岩稜も足下にする事が出来た。
ガレ場を少し登ると七十メートルの岩壁Aフェースに突き当たる。
フィナーレにふさわしく、快適な岩登りを楽しみながら、午後三時に前穂高の山頂に立つことが出来た。
計画は予定通りに終った。パートナーS君の手を、固く握り締め、互いの健闘と成功を讃え、前穂高岳を後にした。吊尾根を散歩しながら、奥穂高経由で涸沢のテント場に下りたのは、陽が北穂高岳の稜線に消える頃だった。
友は、勤務の関係で明日の早朝に下山して行く。狭いツエルトの中で精一杯のご馳走を作り今回の山行を労ってやった。
俺は今年も、二十日余りの涸沢貴族の生活が始まる。
毎日山と向き合い、そして戯れていられる。何て贅沢な日々であろう。

北穂高岳 滝谷グレポン壁 単独登攀
俺は一人で滝谷の岩場にやって来た。
突然静寂を破り、大音響が滝谷全体を包んだ。恐ろしい程大きな岩が、C沢右俣奥壁を落下してくる。ほんの数秒間の出来事であったが、俺はローソク岩の基部で岩壁にしがみついたまま恐怖で長い間身動き出来なかった。
こんな恐ろしい出来事を肌で体験した今日が始まった。
真夏だと言うのに肌寒い涸沢のテント場を後に、北穂沢の雪渓を登って来た。
ビーズの様な前穂高北尾根が朝の光を浴び、薄暗い涸沢カールから競り上がり輝いている。 暫らく北穂沢を詰めてから左側の尾根にルートを取ると、三角形の穂先が天を突く槍ヶ岳の雄姿が顔を覗かせ始めた。鳥も止まらぬと言われている滝谷の岩壁に初めて単独で挑むという、野望を胸にして。
「単独登攀」 俺達クライマーがアルピニズムを追求して行く手段としては究極の行為である。それだけ危険も増大するが、成功を収めればアルピニストとして名誉であり、最高の誇りでもある。
今日登ろうとしている壁は、滝谷の岩壁群では人工的手段を使わずに登れ、絶好のフリークライミングを提供してくれる、グレポン岩壁である。
待ち受ける如何なる困難も一人で解決して無事に登攀をやり遂げ、己の欲望を満たし自分を誇る事が出来るのか?…………
それとも、二十一才の若き名も無いクライマーがこの滝谷の岩壁に藻屑と消え、この世から永遠に忘れ去られてしまうのか?…………
登攀を終えて頂で味わう一本の煙草、無償の行為で有るが故の充実感、また麻薬の様なあの快感を味わう事が出来るだろうか?………
期待と不安の入り混じる複雑な気持ちで、此処北穂高山頂まで登って来た。
決断をしなければならない時がとうとうやって来てしまった。
「危険を冒してまで、何故挑戦をしなければならないのだ、」と誰かが呟いた。 「そんなに不安で怖ければ中止してしまえば、」とまた誰かが語りかける。
出かける前には何時も壮大な夢を抱いた計画が頭の中に描かれるが、いざ実行に移す段になると弱気の虫が騒ぎだし今日も、いつも以上に騒ぎたてる。 グレポンの岩壁と戦うのではなく、退却と言う汚点を心の中に残さない為の、戦いではないか。 己に勝つ為には、この薄黒く汚れたC沢左俣の急な雪渓を右俣出合いまで降り、この頂をこの足で再び踏まなければならない。
迷いを吹っ切れないままで俺は急な雪渓に足を踏み入れた。
もう戻る事など出来ない悲壮感を漂わせるドラマが幕を開けた。アイゼンを持参しなかった事を悔やみながらの下降だ。 暫らく降ると左手にスッキリした岩峰ドームが半円形で聳え、その基部で二人のクライマーが攀る準備をしている。尚も谷底まで滑り落ちそうな雪渓を慎重に下ると、C沢右俣が合流して、此処でやっと危険な下降から解放されホッとする。
目指すグレポンの岩壁は、スカイラインに鶏冠の様な岩頭を持ち、その奥にローソクに似た岩峰を空に突き出している。
わざわざ下降してまた岩壁登攀の為に攀じ登る。 登山としてはいささか疑問に感じたが、そんな事は今の俺には如何でも良い事で、多くの岩壁を攀じ登り、名誉? 栄光? を掴む旅の途中である。
右俣の雪渓を少し登ると、取り付き地点に特徴の有る柱状の節理を持った、二百メートル程のグレポンの壁が立ち塞がった。右股のドンズマリに岩の脆そうなC沢右俣奥壁が覆い被さっている。
登攀用具を身に付け、ザイルは肩にかけて攀じ登る準備は出来上がった。
「さあ勇気を出して登るのだ」と誰かの声が聞こえて来る。此処まで来てもまだ「止めとけ」と別の誰かがそっと耳打ちをする声も聞こえる。
「単独登攀」これ程までに、登る前から恐ろしく逃げ場の無い自分との戦いが続くなんて、昨日までは想像さえつかなかった。
所々に錆び付いたハーケンが残された二百メートル程の岩壁が、俺の心の中を知ってか知らずにか、無表情に立っている。
戦いの幕が上がった。柱状の岩に左手をかけて右手でその上の岩角を掴み、右足を岩の凹みに乗せ一歩擦り上がりながら左足をあげる。 単純であるがデリケートで微妙なバランスが必要な岩壁を、手掛かりを求めながら慎重に此処まで攀じ登ってきた。行く手を五メートル程の手掛りが少ない手強そうな垂直の岩壁に遮られた。九十メートル程下には、C沢右俣の岩屑だらけの雪渓が口を大きく開けて俺の落ちて来るのを待ちかまえている。
このまま自分の岩登り技術を信じて突破にかかるべきか、それとも、ザイルを付けて最低限の安全策を取って突破すべきか。
思案していると、ハーケンを打ちつける乾いた音が聞こえて来る。 ドーム西壁に取り付いた二人のパーティが打っているのだろうか。 無理は避けよう。
適当な岩の割れ目を探して大切なハーケンをハンマーで叩くと、二回、三回と音量を変えながら滝谷全体に広がり、心地良い音色のコダマが返って来る。
打ち付けたハーケンにループにしたザイルを固定して登り出すと、以外にも簡単に突破出来てしまった。そんなバカな。己の心の弱さを知った感じだ。
まだ続く壁は岩が脆く所々で緊張させられるが、順調に鶏冠岩とローソク岩の鞍部まで登って来た。もう少しで俺が初めて挑んだ単独登攀も完成する。
突然頭上で想像を絶する大音響が鳴り響いた。
俺は反射的に岩にしがみついた。見上げると、縦走路からだろうか、恐ろしい程巨大な岩が、大小の岩を巻き込みながらナダレの様にC沢右俣奥壁を跳ねながら落下している。
岩の塊が雪渓に落ちて雪を高く飛び散らせ、俺のいる岩壁の真下C沢右俣を、凄いスピードで滑りながら谷底に消えて行く。
鈍い音が聞こえてから暫らく経つと、きな臭い匂いが谷全体に広がり、何時までも鼻について離れない。 全身に恐怖がこみ上げて来たのは、静寂が滝谷に戻り暫らくしてからだった。
まだ恐ろしさで震える足でロウソク岩を裏側から回り込むように登ると、傾斜も緩いルンゼに入った。稜線を歩く登山者の姿も見えて来た。
C沢左俣を下降し始めてから二時間四十分。大好きな煙草にも一度も口にせず、何かに取りつかれた身体が、休む事さえ与えず、追われる様に上へ上にと俺を押し上げてきた。
もう恐れる事も無い簡単なルンゼ状の岩場を登って行くと前が開け、北穂高から奥穂高に続く縦走路に飛び出した。
夢に見てた初めての「単独登攀」も終った。
眼前に穂高の岩山とは対象的な女性的な常念岳の山容がのどかに広がり、俺の大好きな前穂高のビーズ状の北尾根が梓川まで続いている。
煙草の煙が何処までも流れて行く、夏の日の穂高。単独で滝谷登攀を敢行し、成功した、夏の日の昼下がり。 充ち溢れた気持ちで北穂沢を駆け下った。

槍ヶ岳 北鎌尾根 単独行
二十一才の冬も過ぎ、再び二十二才の冬が山にやって来た。
夢を追い求めて山と戦い、精神力、体力の極限まで絞り出して登頂した時に、初めて勝利者としての快感に酔える。俺にとって山は死を賭けたゲームである。
北鎌尾根には夢がある。新田次郎の小説「孤高の人」を読み、加藤文太郎と言う登山家を知り、感動して、一度は登ろうと前々からチャンスを伺っていた。
槍ヶ岳に続くあの長大な岩尾根を、積雪期に誰の手も借りずに一人で登り切ればきっと何かが有る、と信じて……………
十一月下旬。朝の空気は身を切る様に冷たく、木立に囲まれた高瀬川沿いの道は純白な処女雪が薄っすらと積もり、山奥に消えている。湯煙の上がる湯俣から支流水俣川に入ると、登山道も細く足場も雪で隠れて急に歩きずらくなって来た。 所々に丸太を渡した橋は水飛沫で凍り付き、アイゼンの着用を余儀なくされた。七倉を出て八時間、水俣川の水量も少なくなり、目指す北鎌尾根の末端で分けられた千丈沢、天上沢の出会う場所まで登って来た。
小高い台地には、良く自然に調和し見落としそうな一坪にも満たないオンボロ小屋が建っている。猟師小屋なのか、回りの流木を集め、屋根も草木を乗せただけの質素な物で、まるで歴史教科書から抜け出した様な古代住居である。
疲れたので今日の宿は風通しの良いこのオンボロ小屋を借用し、曲がった丸太の柱にツエルトを張り、夕食の水団を作りながら夜の訪れを待つ。
狭いツエルトの中で、たった一人で北鎌尾根を攀じ登る主人公の自分を描き、その雄姿を思い浮かべ楽しみながら眠りについた。
午前二時には、目が覚めてしまった。米軍放出の羽毛シュラフ上にはツエルトの裾から吹き込んだ雪が薄っすらと積もり蚕の繭の様だ。時々目をやる時計は、分針が四十五度傾くのに無限の長さを感じさせられる。
同行したいと言う仲間の申し出を断って此処まで来たのに、一緒であればバカ話でこの長い時間の消費が出来るとチョッピリ悔やみながら………………
ドラマの幕が開いた。待ち焦がれた待望の朝がやって来た。動きたくてウズウズしている身体は自然に準備を急ぎ、靴底にアイゼンを付けている。冷え切ったアイゼンは指に吸い付き、剥がすのに痛い。かなり温度も下がっている。
昨夜は吹雪だった天候も夜が明ける頃には収まり、まずまずの登攀日和だ。
いよいよ北鎌尾根の始まりだ。潅木と藪の混ざった急な斜面を、膝まで潜るラッセルと半ば強引に潅木に掴まり身体を持ち上げ腕力に頼って登っているので、肩から腕にかけての疲れが増すばかりである。
こんな単純な重労働は俺の描いたドラマの中には出てこなかった筈だと悪態を吐きながら、悪戦苦闘の続いた藪とラッセルから解放され、待望の稜線に飛び出した。腕時計に目をやると、まだ七時十五分である。不思議に思い覗き込むと、なんて事なのだ、止まっている。凍り付いたのか叩いても動き出さない。
暗くなれば眠れば良いさと気楽に考える事にして辺りに目を向けると、小さなピークの向こうに大きな独標ピークの岩峰が目に飛び込んで来た。
槍ヶ岳は岩峰の陰なのかまだ見えない。 千丈沢の対岸には赤茶けた硫黄尾根が奇妙な岩頭を並べ、天上沢を挟んでは、大天井岳から槍ヶ岳に続いている東鎌尾根が競り上がっている。
槍に続く稜線上は、風に吹き飛ばされたのか岩稜には雪が殆んど無く、氷と岩の凸凹とした岩稜が果てし無く続いている。俺が夢に見ていた冬のアルプスの景観だ。 アルピニストだけの世界だ。
これからは、小さな失敗も死の世界に引きずりこまれてしまうので、慎重な行動をしなければとアイゼンバンドを強く締め、槍ヶ岳を目指して歩き始める。
アイゼンを着けた足は、凸凹な岩面では安定しなくて歩きづらい。稜線上の小さなピークを幾つか越えて行くと、高さが百メートル以上ありそうな堂々とした岩峰、独標ピーク基部までやって来た。
千天の出合いより此処まで、殆んど休息も取らずに登って来た自分に気が付き、肩からザックを降ろして大休止。腹にも何か入れなければ。
小麦粉に砂糖を入れ卵で練り合わせて油で揚げた、いつもの行動食を取り出し口に運ぶ。この行動食は水が無くても喉を通るので山にはうって付けである。
煙草に火を付けるが、時間が分らないので落ち着かない。
早々に独標の岩場に取り付く。千丈沢側の基部を巻き込む様に、雪の多く積もっている斜め上に延びたバンドから凹状になった岩場の雪を払いながら攀じ登って行くと、思っていたより簡単にに独標ピークに立っ事が出来た。
見よこの息を呑む様な壮大な景観。三六〇度の大パノラマが広がっている。
アルピニストだけに与えられる山からの贈り物だ。ノコギリ状の岩と氷の岩稜の遥か向こうに槍ヶ岳が小槍を従がえて聳え立っている。ピッケルを握る手にも自然と力が入る。
雲間から時太陽も覗くが、右側の千丈沢から竜巻の様な地吹雪が時々襲って来て、目の前に広がる雄大な景色も白一色のベールに塗りつぶされしまう。身をかがめて地吹雪をやり過す回数が多くなってきた。猛烈な地吹雪が去ると、何も無かったかの様に雄大な景観がまた戻ってくる。
刻々と変わる様相の中を、凍り付いた岩肌にアイゼンの爪を立て、小さな岩峰をもう幾つ越えて来ただろうか。槍の穂先が目の前に覆い被さった広い平坦な場所に登って来た。
何となく辺りが薄暗くなって来た。槍の穂先は目と鼻の先で、一時間もあれば登れるだろう。 頂上で朝を迎えるのも魅力だが、はやる気持ちをぐっと腹に収め、広々としたこの台地を、今日の寝ぐらに決めツエルトを岩角に固定する。
風通しは良いが、平坦な大地に足を伸ばして眠られる。被っているツエルトの中はコンロの火を消すとたちまち凍り付き、風で波を打つ度に小さな氷粒がシュラフから出ている顔に降り、冷たくて何度となく目が覚める。
寒さも次第に身に沁み、とうとう我慢出来なくなって来た。 シュラフに潜ったまま、暖を取る為にロウソクの火を前に座り込み、虫が冬眠している様に背中を丸くしてじっと朝を待つ。
何度となく外が明るくなって来た様な気がして、ツエルトの端を捲って覗くが、外はまだ何も見えない暗黒の世界だ。
暖を取る為に灯したローソクも既に原型を留めず、垂れた蝋から僅かな黒い芯が覗き赤く細い炎になってしまった。もうローソクの予備が無い。このまま凍死するのでは無いか、と不安な気持ちが脳裏をかすめ始めた。
時計の無い長い過酷な夜も、過ぎてしまえば大した事は無い。 ツエルトを捲くると、かすかに空が白み始め待ち焦がれた朝がようやく訪れたのだ。
外は小雪が舞っているが登るには差して問題は無さそうだ。 昨夜多めに作って置いたカチカチに凍った水団を、僅かに残った燃料で温めて口に入れると、冷え切っている身体の芯から暖かさが戻り、ファイトが湧き出て来た。
最大の難所と思える、穂先へのアタックだ。
見上げる岩壁は、七十度程の傾斜を持ち岩の節理に沿って雪が縞模様に付き、見た目はかなり悪そうだ。手袋を外し素手で氷付いた岩に手をかけ、アイゼンの爪を僅かの岩の突起に置きながらジワジワと身体を持ち上げ、二十メートル程攀じ登ってきた。
頭上には、被り気味な凹んだ岩の奥に、先駆者が残していったのであろう、錆び付いた残置ハーケンが一本割れ目に打ち込まれている。感覚も薄らぎ始めた手で慎重に確実な手掛かりを探し、被り気味の部分を乗り越すと、傾斜もガクンと落ち楽な登攀になって来た。
相変わらず小雪は舞っているが雲の間から時々太陽が覗き始めた。振り返ると眼下に昨日歩いた北鎌尾根がまだ暗い谷から浮かび上がり、その全容を見せている。雪は付いているが、大まかな岩が重なり合い豊富な手掛かりを与えてくれる壁を少し登ると、そこはもう前を遮る物の無い、剣が建つ槍ヶ岳山頂だ。
小説の世界に憧れ、俺なりの夢を追い、俺の描いたドラマの完結を見る為にたった一人で挑んだ北鎌尾根の登攀も、今、あっけなく幕を閉じてしまった。
雪の北鎌尾根を単独で成功した者はこの世に何名もいなだろう。成功して槍ヶ岳の頂上に立っても、何か大切な忘れ物をして来た気分である。
頂上を後に、下山を開始するが、槍の肩までの下りは北鎌尾根より危険で、恐る恐るの下降だ。余りの悪さにザイルを取り出し懸垂下降。股間にに片面が雪に覆われた赤い屋根の肩の小屋が建ち、その向こうに白い世界から黒い岩頭を突き出す穂高の山並みが墨絵の様に浮かび上がる。昨年夏友と歩いた前穂高北尾根が、ビーズの峰を並べて梓川に落ち込んでいる。
肩の小屋も次第に近づいて来た。飛騨側から強い風が吹き抜ける為か、瓦礫が所々に雪の間から顔を出す槍の肩に降り立った。
下界の雑踏の中で生活をしていると、なぜか人間が煩わしく山に逃げだすくせに、入山して僅か三日目だと言うのに何故か人恋しい。
膝まで潜るフカフカな新雪を掻き散らせながら、槍沢を一気に駆け下る。
赤沢の岩小屋付近まで下って来ると雪がくるぶし位になり、アイゼンの爪が岩にぶつかり歩きづらい。横尾まで下ると登山道は平坦になり、所々に地肌を見せ始めた。アイゼンをザックに収めて徳沢まで下ると、これから山に向かう三人の登山者に出会った。
人恋しさと、今の時間を知りたくて立ち止まり声をかけると、彼らも休みたかったのか、重そうなザックを降ろし気軽に話し掛けてきた。関西なまりで「何処を登っ来たの?」と聞いたので「北鎌尾根」と答えたら、急に言葉使いが丁寧になり、俺の方が驚いてしまう。
暫らく山の積雪状態を話してやったり、雑談等で人恋しさも解消出来た。彼達の登山が成功する様願って視界から消えるまで見送った。 同行したいと言う者まで拒否し、たった一人で挑んだ北鎌尾根も、俺の心を満たすには何かが足りなかった。
加藤文太郎に憧れ、夢を追い、ロマンを求めてやって来たのに………

墜落
二十三才の俺にとって生涯忘れる事が出来ない日が訪れた。
十月中旬の良く晴れた日、東京の山仲間達と、伊豆の城山南壁で岩登りのトレーニングをしていた時の事である。オーバーハングの先端に打ち込んだハーケンに全体重をかけて乗越そうとした瞬間、私の身体が大きく空中に投げ出された。 「墜落。」無情にも岩の割れ目に打ち込んだハーケンが抜け、後頭部を岩角に強打したのだ。
一時間余りもまったく意識が無い世界をさ迷ったらしく、うわ言で 「どうして落ちた?」と何度も何度も問いただしていたと、後になって仲間から知らされた。
目の前が妙にがまぶしくなってきた。一緒にトレーニングしていた仲間の顔が、抜ける様な青空をバックにして、ぼんやりとではあるが浮かんで来た。
親友、S君の姿が見つからない。尋ねると彼は、医師の手配と俺を搬出する為の応援要請に麓の町に駆け下ったと聞かされた。
頭と足は多少ふらつくが、何とか自力で歩けそうだ。仲間達には迷惑をかけるが、ザックは背負ってもらい、おぼつかない足で、不安定な山道をゆっくりと下山して行くと、救急隊員と医者が、息を切らせて山道を駆け上がってきた。
医者は俺の後頭部を撫で回しながら「コブだけだろうが、一応念のために精密検査しよう。」生まれて初めて救急車に乗せられ病院に運ばれた。
お世辞にも綺麗とは言えない小さな病院。軍医あがりだと言う医者は、やる事も言葉使いも荒っぽい。「少し痛いかも。」の言葉の終らない内に、太い注射器の針が背中から脊髄に刺された。今まで経験した事の無い痛みが全身に走る。
医師は慌てふためいている。「大変だ。すぐ入院だ。」何事が起きたのか見当も付かない俺だが、医師の持つ注射器の中を覗き見ると、真っ赤に染まっている。
脳が損傷され、出血した血液がすでに脊髄まで下りていたのだ。
お世辞にもスマートとは言えない瓶からチューブが延びて、その先端に付けられた太い注射針が俺の腕に刺された。頭は氷枕で動かせないように固定され、俺の自由は完全に奪われてしまった。仲間が、事故の報告と怪我の程度を私の親に連絡してくれたのだろう。日が沈む頃、両親が血相を変えて病室入って来た。二言、三言会話を交わすが、迷惑をかけてしまったバツの悪さが手伝い、それ以上の会話は続ける事が億劫だ。
部屋の外で、医者と両親が小さな声で話をしている。断片的ではあるが耳の中に入ってくる。 「今夜が峠だから付き添って居るように。」 もしかすると俺は死ぬのかな。この親と医師との会話を耳にして、私はやっと怪我の程度の大きさに気が付いたが、脳の損傷のせいだろうか、不思議に死ぬ事への恐怖など全く感じなかった。
ズーと夢の中をさ迷っていた様な不思議な夜が明け、薄っすらと明るくなって来た窓越しから、小鳥のさえずりが聞こえてきた。少し身体をを動かしただけで頭全体に激痛が走る。
一晩中心配で眠れなかっただろう母が、容態の変化も無い俺に安心したのか、笑顔で顔を覗き込んで来て「人に迷惑を掛けるのじゃあないよ。」つぶやいた。
時々は山仲間が見舞いに来てくれるが、一人になると薄汚れた白い壁に囲まれたこの部屋は暗く居心地が悪い。天井のシミを見つめて居るだけで何も出来ない身体では、時間が過ぎて行くのが余りにも長く感じられる。
時おり、写真でしか見た事の無い海の向こうのヨーロッパアルプスやヒマラヤの山々が、まだハッキリしない頭に浮かんでは消えて行く。
タバコを吸いたい、美味いものも食いたい。あれこれと次々に考えているが、ボーとした頭の中は、焦点が定まらないままで、三日間が過ぎ去った。
頭を動かすとまだ痛みは残っているが、あの激痛から解放されて来ると、今度は、再び山に登れる身体になるのか、不安が俺の頭の大部分を占め始めた。
チョッとした不注意が人様に多大な迷惑をかけてしまう事と、今まで当たり前だった健康の有難さを思い知らされた入院生活が続いた。
半月程の入院と、自宅での療養で一ヶ月が過ぎた頃、山仲間S君が、見舞いがてらに「正月の山行はどうする?」と、尋ねてきた。
筋肉は落ち、ボロボロの身体ではあったが、何かに飢えた頭の中では、消えかけていた闘争心がメラメラと湧き出して来る。
「行こう、何とかなる。」そう決めた時、真っ先に脳裏をかすめた事は、迷惑をかけた親、兄弟をどう説得したら良いかだった。
十一月末より落ち葉の山道の散歩等で徐々に身体をいじめ始めたが、三十分も持たない足、息切れ。これほど迄ダメな自分の身体を、夢であって欲しいと思いながら、朝晩と繰り返しトレーニングを続けていると、少しづつではあるが身体の切れが戻ってきた。
十二月中旬、正月の山行計画を両親に話す時がきた。わかっている事だったが、母は、その身体では無理だ、と血相を変えて猛反対。意外だったのは父親。俺が山に還って行く事が分かっていたかの様に「これからは自分で撒いた種は自己の責任で始末しろ。もう子供ではないのだから。」と。口数の余り多くない親父が、初めて俺の山登りに理解を示してくれ、強く後押ししてくれているかの様だった。

稲子岳 東壁 冬季初登攀
あのイマイマしい墜落事故から三ヶ月もしないうちに、再び俺は山に還って来た。 風雪の荒れ狂う北八ヶ岳、稲子岳東壁の基部に、冬季初登攀の栄光と名誉を、この手入れるために、二十才の若きパートナーS君と立った。
彼は、私を頼って二年程前から本格的登山を始め、今まで何十回も、穂高、谷川などの岩場で苦楽を共にしてきた、信頼でき、俺の弟の様な山仲間である。
見上げる岩壁は、雪と氷がビッシリと張り付き、上部岩壁はガスにけむり、時々チリ雪崩が襲って来る。
冬季初登攀の栄光を目の前にして、 今まで一度も感じた事の無い恐怖が私に襲いかかってくる。何だこれは?… まだ危険にさらされた訳ではないのに。「この臆病者が」登るべきか、このまま逃げ帰るべきか、心の中では、果てる事の無い葛藤が続いている。
これまでの俺の登山辞書に敗退と言う二文字は載っていない。「登るのだ。」
著名な登山家が何かの本に書いて在った 「危険を甘受しなければ真のアルピニズムは存在しない。」その言葉が俺の勇気を振るい立たせてくれた。
この初登攀に成功すれば、きっと何かがある。
アイゼンバンドをきつく締め直して、七十〜八十度の傾斜がある岩壁に一歩を踏み入れた。手がかりと成る岩角は全て新雪に隠れて、毛糸の手袋を着けた指先で掴む岩の突起は頼りなく、最初から微妙なバランスが要求される。
アイゼンの前爪二本は岩の凹凸を探し求めてガリガリと音を出し、少しでも安定した足場を探すべく、岩肌を掻いている。
最低限の安全を確保する為に岩の割れ目を探し、ハンマーでハーケンを叩き込み、カラビナに赤と青のザイルを交互に通して行く。 「後十メートル。」残りのザイルの長さを知らせる声が風雪の中よりかすかに聞こえて来る。無我夢中で攀じ登って来たので、残りザイルの事など気にもしなかった。
幸い両足で十分立てる岩棚を斜め上に見つけ、這い上がった。青のザイルはハーケンに固定し、赤のザイルでS君を確保。安全を保障されているS君は、固定ザイルに掴まりながら凄いスピードで登ってきた。
次のピッチに挑みかかるが非常に悪い。手袋を外さないと登れない所が何箇所も現れ、素手になると数分間で指の感覚が麻痺してしまう。
基部から数えて三ピッチ、百十メートル登ると傾斜が落ち、下部要塞の岩壁登攀を完了する事が出来た。
上部岩壁を目指し、斜度四十度程ある、新雪で不安定な雪壁を三十メートル、表層ナダレを起こさないように細心の注意を払い、上部岩壁の基部に登り着く。
見上げる上部岩壁は下部岩壁より多少傾斜が緩くなっているが、その分新雪が岩に乗り、手掛かりを探すのに苦労しそうだ。
S君に確保を頼み、手で雪を払いながら確実に掴める手がかりを求めて、少しづつではあるが確実に高度を稼ぐ。ハーケンを打つとその振動で、滝のようなチリ雪崩が容赦なく頭の上から襲いかかってくる。下を見れば、もろに雪を被ったS君が、動く雪だるま姿でザイルを握りしめ真剣な顔で見上げている。
そんな過酷な戦いが、もう何時間続いただろうか。
指の何本かは凍傷でローソク色に変わり、手がかりを掴む指先は固く凍りつき始め、痛さを通り越した。感覚のマヒした指先は岩角を掴んでいると、妙に安定感を感じる。この白い悪魔の様な危険極まりない岩壁から脱出する時が来た。
上部要塞も、その姿がなだらかな様相に変わってきた。もう、この変色した指先で岩角を掴まなくても良いのだ。 岩頭に座りザイルを手繰っていると、S君が顔面に笑顔を浮かべて登って来た。喜んで手を差し伸べてくるが、痛み付けられた身体には感激も感動も沸いて来ず、儀礼的な握手しか出来なかった。
墜落の危険がなくった尾根を、新雪を踏みしめながら、待ち望んでいた、風雪の荒れ狂う稲子岳山頂に二人は立った。
俺達はやり遂げた。「冬季初登攀」と言う偉業を。疲れ傷ついた身体にはもう名誉も栄光もどうでもよかった。
簡易テントは持参したが、余りの疲れの為に夕食を作るのも面倒になり、今宵は贅沢に山小屋に泊まる事にして、原生林の中を、新雪に足を捉え苦労しながら、白い煙が上がるしらびそ小屋に着いたのは午後四時を回っていた。
薪ストーブで暖を取っていた時、薄暗い奥から声をかけて来る人がいた。
どこかで会った記憶がある三十代の気品の漂う男だ。「何処を登って来たのか」と問いかけて来た。「稲子の東壁」と、凍傷になった指先を摩りながらブッキラボウに答えた。「エーッ」驚きの声が小さな山小屋に響きわたる。
話を聞いて見ると、私達が先程まで死闘を繰り広げたルートの初登攀を目指してやって来たと言う。
明るいストーブの前に出て来た声の主の顔を見て驚いた。国内はもとより、海外の山で活躍している著名なトップクライマー、H氏であった。
俺達みたいな駆け出しのクライマーにとっては「雲の上の存在」の人である。
今日初登攀してしまった事が何か悪い事をした様な気分だ。彼は私の凍傷になった指を見て、ポケットから無造作にビタミンEの錠剤を出し、「これ飲んで見たら? 効くかどうか分からないが。」と、私の凍傷をきづかってくれた。
その夜は、疲れ切った身体であったが、私の知らない海外の山や、あの岩壁は未踏など、俺の心に強く打つ楽しい話を、夜半までしてくれた。
時々指先の痛みで目が覚めるが、山で布団に潜り快適な夜を過すなんて、何年ぶりだろうか。朝、指先は少しピリピリするが元の色に戻っている。昨夜貰ったビタミンEが効いたのだろうか。
H氏に丁寧なお礼を述べ、また何処かの山で会える事を祈りながら早朝、当初の予定どおりに天狗岳の東壁に向う。

天狗岳 東壁
目指す東壁の頂きは、朝日を浴び雪煙が舞い上がり、高度差 四百メートル程の雪壁が紅く染まっていて、昨日の天気が嘘の様だ。 取付きまでは、原生林の中の処女雪を踏みしめながら膝までのラッセル。サラサラの雪なので、歩を進める度に雪が鳴く。 四十分程歩くと目の前が開け、天狗岳頂上をめがけてダイレクトに突き上げている雪壁の下に着いた。
四十五〜五十五度の傾斜に新雪が十五センチほど積もった雪壁を、ザイルも付けず表層ナダレに気をつけながら、ピッケル、アイゼンを最大限に活用して一直線に頂上を目指す。登るにつれ次第に傾斜が増して来るが、昨日と大違いで、明るい太陽の下の登攀なので、悲壮感など全く無い。 ふくらはぎの張りを除けば、余裕を持った楽しい雪壁の登攀だ。振り返れば、女性的山容の奥秩父の山々が横たわり、そんな姿は、疲れている私にひと時の安らぎを与えてくれる。
頂上直下の雪と岩のミックスした脆い岩場の下で、ザックから昨日の登攀で凍り付いたままのザイルを出してS君に渡す。昨日は全部私がトップを引き受けたので、今日はS君にトップを譲る。
アイゼンが「ガチャガチャ」と岩を噛む音が次第に遠ざかって行く。三十メートル程ザイルが伸びた。「OK」とS君の声がこだまする。
私も後を追うが、今日は後ろから登るので気楽な登攀だ。ザイルで二ピッチ六十メートルを慎重に登ると、ヒョッコリと天狗岳の頂上にとび出した。
南八ヶ岳から続く南アルプスの山々。その奥に富士山、中央アルプス、北アルプスの山々が目に飛び込んで来る。見よ、この壮大さ。
病み上がりの身体で、当初の予定どおり、二ルートからの登頂に成功する事が出来た。俺に付き合って登ったS君に記録の全てを上げたい。
自分自身に妥協を許されなかった今回の山行き。再び山に還られた喜び。
そしてH氏との出会い。この経験と体験は、やり遂げた者だけが知り、やり遂げた者だけが心の奥底にしまい込める、貴重な宝と財産である。

谷川岳烏帽子奥壁〜コップ状右岩壁〜土樽へ
この春、生まれ育った伊豆半島を離れ、新潟県長岡市に住み付いた。
山友達の誘いと、谷川岳一の倉沢の岩場に近いという、そんな単純な発想のもとに、静岡の山仲間や親族の反対を押し切り、越後の人に仲間入りした。
ヨーロッパアルプスの大岩壁に挑む夢が現実になるかも知れない。
もし現実となったら、日本の何倍もある大岩壁を相手として戦わなければならない。其れには、強靭な意志と体力、そしてどんな処でも登りきれるテクニックが必要である。 それを裏付けるために今回の計画はたてられた。
前夜から一睡の睡眠も取らず、真夏の太陽が照りつけるもとで、土合駅より谷川岳一の倉沢烏帽子奥壁凹状ルートからコップ状右岩壁の連続登攀をして、一の倉岳から茂倉岳を通り、蓬峠から土樽駅までの縦走と岩壁登攀を組み合わせた登山を、〇、三リットルの水とチョコレート二枚、レモン一個でやり遂げようと。
一の倉沢の岩場で一番難しい岩壁と言われているコップ状右岩壁で試される岩登りのテクニック。最少限の水と食料で炎天下の縦走に我慢し切れるか多少不安では有るが、やって見なければ分からない。やり遂げれば、益々自分に自信を持てるだろう。
今回のパートナーのN氏。二年前から何回となく谷川岳の岩場で会っているし、お互いの技量は分かっている仲である。また新潟県の岳人の中では飛びぬけた情熱を山にぶつけている人物でもある。 俺達二人と何人かの登山者を乗せた夜行列車は、真夜中に土合駅に着いた。
まだ明けぬ一の倉沢は、月灯りの下で不気味な静寂を保ちながら俺達を迎えてくれる。 今日の一日は長くなるだろう。 ヘッドランプと月明かりを頼りに、真夏だと言うのにまだ残雪で埋め尽くされた沢筋から、テールリッジの簡単な岩尾根を登ると、まだ夜が明けないうちに烏帽子奥壁の基部に着いた。
これから登ろうとしている凹状岩壁は、高度差二百五十メートル程のフリークライミングのルートで、烏帽子奥壁の登攀ルートの中では比較的難しい岩場を提供してくれる。
岩場をいかに早く登り切れるかという事も、今回の大きなテーマの一つで有り、自分の力とパートナーの力両方が優れていないと目的を果す事ができない。
対岸の滝沢スラブの上に聳え立つドーム岩峰が明るく輝き出した。
四時三十分登攀開始。 一ピッチ目はN君がトップで、細かい岩を拾いながら四十メートル直登して小さな岩棚で確保。次は俺。一ピッチ目の四十メートルを登ってN君の横をすり抜け、二ピッチ目は俺がトップで、一気に八十メートルを登りきり確保。つるべ式登攀で時間の短縮を図りながら、このルートの核芯部、四ピッチ目は俺がトップで取り付く。垂直の細かい岩の突起を探しながらジワジワと高度を稼いで行く。二十五メートル程直登すると頭をオーバハングに抑えられ、右に十メートルトラバースして、安定したテラスでN君の確保に入る。悪い悪いと言いながらもN君は快調なペースで登ってきた。
このルートの最難度の岩場も足の下になった。タバコに火を付け小休止を取ってから、傾斜の少し落ちた岩壁を三ピッチ 百十メートル登ると、衝立岩の頭へ飛び出した。
五時四十分。僅か一時間十分のスピードで登り切れた。
コップ右岩壁には、衝立岩の頭から四十メートル二回の懸垂下降を行い、コップの広場に降りなければならない。空中を、ザイルにぶら下がりながら降りていると、広場から聞いた事がある黄色い声が掛かって来た。
まだ一緒に登った事は無いが三年程前から付き合いのある、ジャパン エキスパートクライマーズクラブの小暮氏、久保氏、若山さんの三人であった。
お互いの無事と再会を喜び、まるで山での同窓会のように二時間以上も時間
の過ぎるのを忘れて話し込んでしまう。
まだ俺達には難題の右岩壁が待っている。この壁は、まだ三〜四パーティしか完登を許していないと聞いていた難壁だ。 八時四十五分戦闘開始。最初から難しい登攀だ。オーバーハング、垂壁のフリー、ブヨブヨで草付き、浮石など、難題が次から次へと行く手を遮る。この岩壁が提供してくれる難題を解きながら慎重に攀じ登つて行く。 真夏の太陽が憎らしい程に照りつけ、額から汗が滲み出て目が痛い。ザイルの長さで七ピッチ二百四十メートルの登攀で、右岩壁も無事十二時十分登り切る事に成功をした。
ザイルをしまい、一の倉尾根を目指して、急な草付きをただひたすら五十分登ると、五ルンゼの頭にヒョッコリと出た。
これからが体力と忍耐との戦いだ。水も底を尽き、残っているのはレモン一個とチョコレート半分。くそ暑い炎天下のもとで、まだ土樽駅まで四時間以上かかる尾根道だ。このまま、南稜を懸垂下降で一の倉沢に降りれば、涼しい雪の上を二時間程で土合駅に着けるし、どんなに楽だろうか。
俺って何時もそうなんだ。疲れて来ると楽な道を選ぼうとする。
それでいて、欲が深いのか計画を放棄出来ずに突き進んでしまう。
当初の予定どおりに、一の倉岳から茂倉岳を縦走して土樽駅までの長い縦走路を歩く事に決めて、やっと重い腰を上げた。
登山で、単調な道はどうも苦手だ。歩いていても時々睡魔が襲って来る。
緊張感も薄れ、岩登りをしている時より危険な状態だ。空腹と喉の渇き、先程からは疲れも加わって来て、休むたびに歩くのが嫌になる。ただ足の動くままに蓬峠から長い下りを歩き続けると、途中小川のせせらぎが聞こえて来た。
水だ! だが、まだ俺の登山は完成されていない。
せっかくここまで何の為に我慢して来たのだ。澄んだ水を流す小さな沢が道を横切っている。それでも我慢だ。こんな馬鹿げた事をしている自分を誇りに思えて来た。N君はとうに水にあり付き、たらふく飲んでいる。バテバテになりながらも、十七時少し回ってから土樽駅に辿り着いた。
予想どおり、いや其れ以上に厳しい山行きであったが、やり遂げた満足感で一杯の頭は、汽車に乗り込んだ途端に夢の世界に引き込まれてしまった。
この山行きを最後に、N君とザイルを二度と組む事は無くなってしまった。
彼は山の世界から、完全に消え去ってのだ。
ヨーロッパアルプスの大岩壁を夢に見ながらの「より高く、より困難」を求めての登攀と縦走。やり遂げた者だけにしか分からないであろう満足感が漂う。
コップ状岩壁広場で夢を語り、お互いに良い登山をしようと話した小暮氏は、後にヒマラヤ登山に向かい遭難死。若山さんもマッターホルンで墜落死してしまった。
命をかけてまで栄光を掴み獲ろうとしての戦い。己の満足を満たす為の戦い。
そして遭難死。これがアルピニストのすべてに課せられた宿命なのだろうか。

登攀同志会 誕生
長岡に住んで驚いた事に、新潟県に山岳会は数多く有るが、先鋭的登山を行なっている人の数が非常に少なく、一緒に登ろうとしても丁寧に断られるか、対抗心を剥き出しにして俺に接して来る者もいる。
これでは俺を受け入れてくれる山の会など存在しないという事に気付き、それではと自分で山の会を立ち上げることにした。
「登攀同志会」の誕生である。
最初は会員集め。市内のスポーツ店に募集要項を張ってもらい、第一歩がスタート。会員資格は、十八才以上、アルピニズムを追求する者、男女は問わず。
インパクトが強かったのか、十日もしない内に二名の青年が尋ねて来た。
一人は柏崎市のK君。背が高く細身である。もう一人は地元のT君。こちらはズングリとして、明るい人柄が表面に滲み出ている青年だ。とにかく、早く
力をつけて何処の岩場でも登れる様に、暇さえあれば、八木鼻のゲレンデ、弥彦の沢などで岩登りのイロハを教え込んだ。 三ヶ月もするとメキメキ腕を上げ、何となくロッククライマーらしくなってきた。
夏には穂高に連れて行き、伊豆の仲間達も一緒に、屏風岩や奥又白に入り、前穂四峰などで実践訓練を兼ねて合宿を行い、成果を十分得る事が出来た。

明星山 南壁左フェース 直上ルートの開拓
九月中旬。日帰りで、K君とT君を誘い、ここ明星山の岩場にやって来た。
高さ四百から五百メートル、異様な節理をもった石灰岩の岩壁である。
今回の計画は、その岩壁をダイレクトに登るルート開拓を、出来るだけハーケンの力を借りずに登り切る為の、偵察及び試登に来たのである。
今まで経験した事の無い石灰岩の岩壁。そして、覆い被さる岩壁に圧倒されるも、何とか登れそうな場所を見つけ試登して見る。
最初から手掛かりが無く苦戦。被り気味の岩は、わずか四十メートル登るのに、私は二時間もかかってしまう。次はT君、途中まで来ると引力に負け岩から身体が離れる。俺の確保は万全であるが、小太りのT君は重い。何とか私の居るテラスまで必死の形相で這い上がってきた。
今度はK君の番だ。「ザイル張って、緩めて。」など注文を付けてうるさい。苦労してテラスまで来て開口一番、「悪すぎる。」 今日は此処までにして懸垂下降。降りるのは楽なものだ。ザイルの助けを借りて空中散歩。着地した所は、取り付き地点より四メートルも外側に離れ、改めて傾斜の強さを感じた。
十月末、明星山南壁の完登を目指して、再びK君と河原に立った。先回試登の時の怖さの為だろうか、T君は今回の計画には参加を見合わせた。
雲が低く垂れ籠め、いつ雨が落ちて来てもおかしくない天候だが、二日間の休みを逃すと、いつ 又この場所に立てるかわからない。
取り付きより四十メートルは、先月試登した時にザイルを固定しておいたので余り苦労しなくて登ることが出来た。
頭上は赤茶けたオーバーハングが空を遮り困難な登攀が待ち構えている。
ハーケンを打つが半分程で曲がってしまいり効いてくれない。ボルトを打ちたいが、ボルトを使用しないで登り切る事が、今回俺に課せられた最大のテーマであり、ボルトを使用して初登攀に成功したとしても、俺にはこの登攀が色あせた物になってしまう。
恐る恐るハーケンに体重をかけ次のハーケンを打つが、また半分程で曲がってしまう。このハーケンが抜けたら、四十五メートル下の小滝川の河原に叩き
つけられるだろう。祈る様な気持ちで、効かないハーケンに身をゆだねながら
五メートル程登ったら、岩の割れ目さえ全く無くなってしまった。
まだ岩場は、垂直を越えている。
手をいっぱいに伸ばし岩肌を必死でまさぐり回すと、あった。辛うじて指先が半分位かかる程の岩の突起が。「落ちるかも。」とK君に声をかけ、右腕に全体重をかけて身体を持ち上げながら、左手の手掛かりを探す。両足は先程より空中で、何の役にも立っていない。右手はもう限界を越え震えがきている。左手が辛うじて岩をつかんだがぐらつく。もしこの岩が剥がれたらどうなる。
もう戻る事など出来ない絶対絶命のピンチだ。
この浮いた岩に命を託すしかない。手の平は先程から汗が滲み、剥ぎ落とされそうな身体を必死に支えている。まさに生と死の狭間の戦いだ。
今度は右手がしっかりとした岩角をつかんだ。強引に身体を引き上げる。
「ヤッター。」とうとう赤茶けたオーバーハングを乗り越えた。やっと両足に体重を乗せられる所に這い上がったと同時に冷や汗が首から背筋を流れ落ちて行くのを感じる。
好き好んでこんな危険な行為をする事に、何の意味があるのか。俺のしている事など、一般的に見れば馬鹿げていて無意味かも知れないが、俺にとって、この没頭する時間が掛け替えのない人生そのものだ。
右上にルートを取り、安定した場所でハーケン二本を叩き込んで、K君の確保に入る。ザイルが張られているので大丈夫だろうと思っていたが、何度となく確保ザイルにショックが走る。何時もの事だが、K君はやかましい。「ザイルを張れ、緩めろ、落ちる、死ぬ。」など喚いている。
彼が登り始めてから一時間を過ぎ様としている。やっとオーバーハングから顔を覗かせ始めた。ヘルメットの奥の眼鏡が水滴で光っている。暫らくすると私の前に全身を現わした。青ざめた顔に苦闘の跡がありありと出ている。
次に待ち構えているのは、垂直で壁は凹状に開いている壁だ。岩も固く手足を思いっきり使えるダイナミックな岩壁を四十メートルザイル一杯に伸ばしてK君の確保に入る。
泣き出しそうだった空からとうとう雨が落ちてきたが、かまわずダイレクトに登り続けると、岩が脆くなり、所々にブッシュが現れ、傾斜が少し緩くなって多少登り易くなって来た。
夕闇がもうそこまで迫っている。「ビバーク」幸運にもすぐ上に、二人が座って一夜を過せるテラスを探しあてる事が出来た。
下着までずぶ濡れの身体は、寒さで震えている。ツエルトを被り、コンロでスープを沸かしながら暖を取る。狭いツエルトの中はすぐに暖まり、先程の寒
さが嘘のように身体も温かくなって来た。
今夜は長く厳しい夜になる事を覚悟して、温かい身体のうちに少しでも眠ろうとするが、寒さですぐ目が覚めてしまう。
いつの間にか雨が雪に変わり、益々寒さが増して来た。時計の針がなかなか動かない過酷な夜であったが、待ちに待った朝がやって来た。
ツエルトから顔を出すと頭上には青空が広がり、近くの海谷渓谷の山々が白く薄化粧して、もう冬の足音がそこまでやって来ている。紅茶を沸かして冷え切った体を温めてから二日目の行動に移るが、疲れている身体には最初の一歩を踏み出す勇気がなかなか湧いてこない。
大声を発し、自分で自分に気合を入れながら、登攀を再開する。岩は脆いがさほど困難な所も無く順調に百五十メートル程登ると、そこはもう、ザイルの必要のないなだらかな南壁の肩、中央バンドに這い上がった。
とうとうやり遂げた。「登攀同志会」を立ち上げて四ヵ月。
クラブのルートとして明星山 ピーク六峰 南壁に、一本の線が引かれた。
今まで誰の手にも触れていない岩を、遂に俺とK君は足の下にする事が出来たのだ。軟らかい晩秋の日差しを浴びながら、苦労を共にして来たK君とガッチリ握手を交わし、満ち足りた心を思う存分楽しんだ後には、もう次の岩壁に戦いを挑もうとしている自分に驚く。
ヨーロッパアルプスの未知の岩壁登攀が、俺の頭の中を駆け回っている。
この暖かくて快適なテラスも去る時がきた。後ろ髪を引かれながら下山を開始。西側の潅木の中を掻き分けながら小滝川の河原に降り立って、この困難だった岩壁登攀も無事完了する事が出来た。
この岩壁の中央部に、困難で、限りなく真っ直ぐな一本の道が、初めて引かれた。 未知の世界への憧れ。苦しめば苦しむ程その難題を解決した時の喜び。
そして又、新しい喜びを求めて………。

  耐乏の日々
金も無いのにヨーロッパアルプスの計画が着々と進んで来た。
何とか五十万円の金を作る為に、山行きと言えば、交通費の余りかからない谷川の一の倉沢や明星の岩場に集中して行くようになった。
不足分は姉からの借金で何とか出発出来る目処が立ち、最後のトレーニングの為に四月下旬久しぶりに穂高にやって来た。
奥又白の雪と氷が付いた井上靖の小説「氷壁」の舞台になった北壁を登り、滝谷に行きドーム西壁など豪快なクライミングが出来るルートを選び、一週間で数多くの登攀に成功した。
後はヨーロッパアルプスに向かう出発の日を待つだけになった。

ヨーロッパアルプス へ
「生きて帰って来るんだよ」母の言葉を胸に、百日間に及ぶヨーロッパアルプスの山旅に向った。 パートナーはK君、二十六才。山に魅せられアルピニズムの追求の為、我がクラブ、登攀同志会に入会してきた、根っからの山男だ。
勤めていた銀行を退社してまで、私の計画に加わってきた。
目的は、アルプスの中で最難度に数えられている岩壁からの登頂だ。
さしあたりモンブラン山群に天を突き破る様に聳え立つ、ロッククライマーの憧れの的、「ドリュ」の登攀だけは成功させると、心に固く誓っての旅立ちだ。
横浜からナホトカ間は船旅。かなり大きい船なので快適である。寝台列車に乗り継ぎハバロフスクに着いたのは、横浜を出でから三日後、俺の二十七才の誕生日「五月二十三日」だった。
誕生日は、モスクワまでの飛行機の中で過す。外は白い雲が浮かんで綺麗だが、動き廻れない機内はいたって退屈である。何時間乗っただろうか。やがて機体はモスクワ空港に滑りこんだ。今夜はホテル泊まりだ。手足を十分伸ばし
て眠れると思っていたが、白夜のせいなのか十時になっても暗くならず、又、
時差の関係で、俺の誕生日が何と三十時間を越えている。
モスクワからはポーランド経由で夜行汽車の旅。横浜を出てから七日後の早朝、オーストリアの首都ウィーンの東駅に列車は滑り込んだ。
何となく堅苦しい共産国の長旅に疲れた身体を休めるべく、二日間の休養を取る事にして、古都ウィーンの石作り街の見学に充てる。
インスブルック経由で最初の目的地、イタリアのドロミテ山群に向かった。
夕方に辿り着いたイタリアアルプスの山都アレゲは、四方が天を突く岩峰に囲まれ、空と岩峰だけの世界に迷い込んだ様だ。
ドロミテアルプスの盟主、チベッタ北西壁が紅く染まり、その石灰岩の巨峰が針葉樹林の上から覆い被さるように聳え立って・・・

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2006年05月18日

アルプスの夏休み

ヨーロッパアルプスの夏休み

ドロミテチベッタ.JPG

ドロミテアルプス チベッタ北西壁敗退
「6月2日」チベッタ北西壁の巨壁にアタック開始した。
高度差千メートル。垂直の大岩壁に手を懸け、ザイルに結ばれた友と、一歩また一歩と高度を稼ぐ。取付きから七時間、五百メートル程登っただろうか。
暗闇がせまって来たので、今夜の宿は巾三十センチ程の岩棚にきめる。
ハーケンを何本か打ち、カラビナ、ザイルで身体を岩壁に固定して、眠りにつく。夜半、サラサラと言う音で目がさめると、雪が降って来た。
身体と岩壁の間に雪が溜り、何度となく押し出されて、空間に投げ出されそうになる。夜も明けて、ツエルトから顔を出して外を見て驚いた。湿った雪が容赦なく降り続き、完全に白亜の城の中に閉じ込められてしまっていた。
壁からは泡ナダレがシャワーの様に休むひまもなく落ち続けている。残念であるが最初のアタックは失敗に終わり、十回程の懸垂下降を繰り返して岩壁の基部に降り立ち、アレゲの町に逃げ帰った。

トーレベネチュア.JPG

ドロミテアルプス トーレベネチァの登攀
「6月7日」墓石に似た岩峰、トーレベネチァを南壁から登る為に、昨日アルバータの山小屋に入った。
この岩壁は、ドロミテ山群で最難度にランクされたフリークライミングルートで、その困難さ故に登る人が殆んどない。早朝は霧が深く、山小屋からどの方向に山があるのか判らず、三時間も足止めをくらってしまった。
霧が晴れ上がりやっと小屋を後にして南壁の基部に向かったが、あくまでも垂直の岩壁は俺達をあざ笑うかの様に聳え立ち、見れば見る程墓石の様な山で、この大きな岩峰が俺の墓になるのでは、と不吉な予感が脳裏をよぎって行く。
十時、戦闘開始。仲間とトップを交代しながら、右に左にとルートを見つけ
出し、快調なペースで五ピッチ、百五十メートルを攀じ登った。
核芯部、オバーハングが連続する壁が頭上を被い、私達を拒絶するかの様に待ち構えている。クライミングの最難度、六級のフリーだ。K君がトップで被り気味の岩を十五メートル程登った時、突然悲鳴と乾いた金属音が岩壁に響き渡った。 「落ちた」 とっさにザイルを強く握り確保体勢に入る。
次の瞬間、物凄いショックが俺の身体を襲う。ザイルが凄いスピードで手の平を走りだした。ザイルの摩擦で焼けるように手が熱い。ザイルの動きが止まった。 一メートル頭上にK君が青ざめてぶら下がっている。K君を私の居る小さなテラスまで降ろし、意気消沈して声も出ない彼を、必死に励ます。
無理もない事だ、本格的岩登りを初めてまだ二年しか経っていないのだから。
これから先は全部俺がトップを引き受ける。「確保を頼む。」と言い残し、六級のフリークライミングに挑みかかった。
何処まで続くのか垂直とオーバーハングの壁。時には片手で岩の突起を掴み、強引にオーバーハングを乗り越し、小さな岩の凹凸を拾いながら、尺取虫の様に少しずつ身体を引き上げて行く。K君が落ちた所より百二十メートルを攀じ登った。 後四十メートル登りきれば、少しは傾斜も落ちる。正念場を迎えた。
右上に横断気味にルートを取りながら進むが、今まで以上に手掛かりが乏しく極端に難しい。三百メートル下には、私を呼んでいるかの様に岩の散乱したガレ場が待ち構えている。
此処で墜落したら・・ 運良くハーケンが抜けずに持ちこたえ、俺を支えてくれても、俺の身体は岩壁から四〜五メートル離れて漂うだろう。其れから脱出できるだけの体力がまだ俺には残っているだろうか。
先程より、指、腕、ふくらはぎが限界を越え、今にも壁から剥ぎ落とされそうだ。こんな生と死を分ける戦いなどを、好き好んで大金を使い外国まで来て行なう馬鹿が、この世の中に何人いるだろうか。
僅か四十メートルの核芯部を一時間かけてクリアし終えた頃には、太陽が山並みに消え夕闇が迫って来た。
明け方の憎き霧よ、お前のせいで、こんなチッポケな不安定極まりない岩棚で一夜を送るなんて。カラカラの喉の渇きを癒してくれる水さえ一滴も無い。
友と会話を交わすのもおっくうな、辛い夜になってしまった。
この不安定な岩棚にも朝が訪れた。寒さで身体の動きが悪い。暖かい太陽が岩壁に降り注ぐのを待って登り始める。傾斜も少し落ち快適な岩を、元気を取り戻したK君と交互にトップをしながら百五十メートル程登ると、前をさえぎる物が何も無い青い空間が広がった。遂に、あの巨大な墓石の上に立ったのだ。
あの、チベッタ北西壁の悔しい敗退。焦りとモヤモヤする気持ちから、やっと解放された。
澄みきった濃紺の空。そっと頬を撫ぜて行く初夏のドロミテの風が、疲れた身体に心地よく通り過ぎて行く。K君と固い握手をかわし、互いの健闘と、無事に登頂出来た事を喜んだ。日本をあとして二十日、とうとうドロミテアルプスの最難度にランクされたトーレベネチアの南壁からの登頂に、日本人で初めて俺達二人は成功した。
この遠征に協力してくれた山仲間に、やっと良い知らせの便りが書ける事を喜び、「ドリュ」の登攀を目指して、「6月21日」イタリア北部、ドロミテアルプスの山都アレゲの街を後に、ミラノからジュネーブ経由でドリュの登山基地シャモニーにやって来た。
雄大で白い山容を誇るモンブランの姿とは対象的に、天を鋭く突き刺す赤みを帯びた花崗岩の針峰群、それをえぐる様に食い込む氷河。ここは素晴らしい岩と氷だけの別天地である。
夢に見、憧れていたドリュは、エギューベルトの白き峰を背景にその存在を誇示するかのように、大岩壁が南東の空に突き上げている。シャモニーに来てから毎日の様に午後は雨が降り、イライラの募る日が続いた。
僅かな晴天を利用して、「6月27日」にはエギュー・デュ・ミディの南壁、七月三日にはエギュー・デュ・ペイユのパピヨン岩稜などアプローチが比較的短く一日で登れる山の登攀と、岩登りの練習場ガイアンの岩場でトレーニングしながら、安定した天候が訪れる事を祈り、ひたすら待ち続ける毎日だ。
やっと訪れた晴天。その壮大な大岩壁、南西岩稜からの登攀のチャンスがやっと訪れた。 このドリュの大岩壁は、モンブラン山群の中では最も困難な岩壁で高度の登山技術が必要とされ、アルピニスト達の憧れの的である。
今回の遠征に於ける最大の目標、目的は、この針峰ドリュの登攀であった。

ドリュ.JPG

ドリュ 南西岩稜の登攀
登山電車の終点モンタンベール駅よりメールドグラス氷河を横切り、ドリュの基部に大きな岩が何重にも積み重なったガレ場を登って来た。
「7月6日」四時三十分、俺とドリュとの戦いは、暗く陰険なクロアールの氷壁登攀から始まった。 取り付きは四十〜五十度の比較的傾斜の緩いクロアールを、十二本爪アイゼンの前爪二本を使い、左手にアイスバイル、右手にアイスメスのコンビネーションで、西壁の下までいっきに二百メートル駆け登る。
見上げる氷壁は更に傾斜が増してきた。K君とザイルを結び、六十〜八十度の氷壁に一直線にルートを採る。しばらく登ると、余りにも硬い氷壁に、K君のアイゼンが悲鳴を上げてしまった。前二本の爪が折れ曲がり、この氷壁登攀ではザイルのトップを務める事が不可能になってしまった。
早く登りきらないとこのクロアールは非常に危険である。気温の上昇と共に上部岩壁の凍り付いていた岩が剥げ落ち、狭いクロアールの中は落石の通路になってしまう。 胸がつかえそうな傾斜のブルーアイスの壁にアイゼンの前歯二本を蹴り込み、アイスバイルを叩き込んで、一歩また一歩と、時間に追われながらの氷壁との戦いが、果てし無く繰り返されて行く。
先程より少しずつ山が目を覚し始めた。落石の鈍い音がこのクロアールにこだまし始めた。俺のふくらはぎが硬直しケイレンを起こし始めた。
足を休ませたいが、こんな所で休息の時間を費やすと落石の餌食となる事は確実で、そんな事で還らぬ人となってしまうなんて、まっぴらゴメンだ。
苦しく非常に困難だった氷壁登攀も終わりに近づいてきた。渾身の力でアイスバイル振るうと、砕け散った氷片が確保しているK君のヘルメットを叩く。
俺の力では、もう限界に近い登攀を続けて来た。何とか落石の恐怖が付きまとうクロアールからの脱出に成功した。
頭上には、明るい花崗岩の岩壁が天を突いて聳え立っている。
これより頂上まで、標高差八百メートル。垂直の岩壁を右に左にとルートを探しながら、ザイルで四ピッチ、百五十メートル程登ると、オーバーハングに行く手を遮られた。 ハーケンを打ち、カラビナにザイルを通して強引に乗越しにかかる。右手で掴んだ岩が剥がれた。と同時に私の体が宙に舞った。
「墜落」頭が下になり落ちていく。苦労して登って来た恐怖のクロアールの氷壁が目に飛び込んで来る。意外と冷静な頭の中は、ザックが肩から外れて落ちなければ良いな等と心配している。 長い時間(?)が過ぎ、腰と肩に強いショックが来た。落下距離十メートルの宇宙遊泳は二〜三秒で終わった。
空中に逆吊りで漂っている自分に腹立しく、ますますファイトが湧きでて来る。神が味方したのか? 悪運が強いのか? 幸い怪我は腕の打撲と手の甲の擦過傷ぐらいで、登る事にさして影響はない。
まだ先は長い、急がなければ。何ピッチ登っただろうか。すでに太陽は西の山に沈み、あたりが簿暗くなってきたので、ビバーク サイトを探さなければならないと思いながら登っていると、幸いすぐに足を伸ばせる岩棚が見つかり、快適な七夕の前夜祭を迎えることができた。
空一面が星また星。正面には星明かりで巨大なシルエットを描くモンブラン山群が並び、眼下には暖かそうなシャモニーの街の灯が輝いていた。
「7月7日」夜が明けた。メールドグラス氷河をはさんで、グランド・シャルモの北壁が登攀意欲を湧かせるように天を突き、炎の岩稜の向こうには、雪がビッシリ付いたグランド・ジョラスの北壁が魅力的な姿を現している。
見上げる壁は、まだ垂壁とオーバーハングの連続である。早朝より、二百メートル程登っただろうか。K君がトップで、垂直の壁からオーバーハングをじわじわと攀じ登って行く。二十五メートル程私の手から繰り出されたザイルの動きが、突然止まった。しばらくの静寂が続いた。突然かん高い悲鳴。見上げると、黒い物体が青空に浮かぶ。K君が落ちた。とっさに身構える。手の平をザイルが走る。ザイルを思い切り握り締める。ザイルの動きが止まった。
見上げると、頭上十メートルに空中ブランコのように左右に気持ち良さそうに揺れている。「大丈夫?」と声を掛けると、心なしか元気の無い声ではあるが「大丈夫。」とはっきりした声が返って来たので安堵する。
「あと少し、もう一踏ん張り」と自分に言い聞かせながら必死で攀じ登るが、非情にも太陽がモンブランに沈み、また夜になってしまった。
七夕の夜だと言うのに最悪の夜を迎えた。身体をザイルで岩壁に固定し、立ったままの格好で一夜を過さなければならない。食事と言えば、火器を使用出来ないために、持参したインスタントのスープも飲めず、オブマルテーと言うチョコレート菓子の携帯食を少し口に入れるだけの粗末な物だ。
夜半より織り姫(?)、が強い風を伴いやって来た。
叩き突けるアラレ。その上カミナリまで歓迎の花火を鳴らしている。 とうとう恐れていたドリュの嵐がやって来たのだ。俺達二人は自然の脅威にさらされて成すすべも無く、岩壁に張り付いた侭の格好で、じっと嵐の通り過ぎるのをただ待つしか手がなかった。
「7月8日」長く厳しかった夜が明け、信じられない様な青空が広がっている。
出発が早い。動きの鈍い身体で八十メートルを攀じ登ると広いテラスが目前に現れた。 西壁ルートと合流して南西岩稜が終了する地点である。昨夜と今朝の食事を一度に腹に収め、頂上をめざす。
さらに垂直の岩壁を百五十メートル程登った所で、再び雷鳴が轟き始めた。
またドリュの嵐が襲って来たのだ。回りの岩稜は、下から上に猛烈な勢いで閃光が絶え間なく走り、身体は感電して、髪の毛が引き千切られるように痛い。大粒のアラレが容赦なく身体を叩く。まるで地獄絵の真只中に放り込まれたようで、何も出来ない。俺の人生もこのカミナリに打たれて終わりか、と何度も考え、恐怖と強風で身動きも出来ずにじっと耐え続けた。
幸運にも、暴れ狂った嵐も一時間程で通り過ぎて行った。今まで何事も無かったかの様に穏やかな太陽が戻って来た。俺達は生き延びている。こんな所に長居は禁物と、早々に頂きを目指し登攀を開始した。
十四時、とうとう夢に見た「エギュー・デェ・ドリュ」の頂きに立った。
あれほど憧れていたドリュの登攀だったのに、何の感動も感激も湧いてこない。 何年か前に八ヶ岳の冬季初登攀に成功した時も今回と同じ様な経験をしている。 一体これは何なのだろうか・・
頂きを後に、長い懸垂下降に移るが、疲れ切った身体には下降も辛い。四百メートルも降りただろうか、また夜になってしまった。今日中に下界に下りる積りで居たので、食べ物が何も残っていない。食事の仕度をする必要もなく、早々にツェルトを頭から被り横になる。
「7月8日」 早朝から下降を始めて間もなく、エギュー・ベルト南面から流れ落ちる氷河に降り立ち、氷で腹の足しにして下降を急ぐ。メールドグラス氷河を横切りながら、次の目標グランド・ジョラス北壁を見上げ、モンタンベール駅に重い足取りで辿り着いた。そこで飲んだ、一杯たった二フランのコカ・コーラ。この世にこんな美味しい物が存在するなんて!
登山電車でシャモニーの街に降り立ったのは、午後も早い時間だった。
何年も前から憧れて、そして夢に見て、日本を立つ前から自分に課した最大の目標、目的であった「ドリュの登攀」も、もう夢ではなくなり、過ぎし日の思い出になってしまった。
栄光を手に入れ、名誉も手に入った。だが同時に夢も憧れも失ってしまった。
テントに帰り見上げるドリュの針峰は、何ごとも無かったかのように、夕焼けに紅く染まり聳え立っている。
陽がモンブラン山群に沈み、少しずつ色を失って行くドリュを、安堵と疲労で動くのも億劫な身体で、ただじっと見上げていた。
この年は、モンブランアルプスは天候に恵まれず、15日間、テントでゴロゴロしている生活だった。
体調の優れないと言うK君を残し、日帰りの出来る岩壁を探し、「7月24日」モンブラン山群の向かい側に位置する、ブレバン山群に向かいにアレート・ド・チャペルと言う三百メートルの快適で景色の素晴らしい岩壁を登り「7月26日」にもエギュー・ド・レムの北北東カンテの豪快な岩登りルート、「7月28日氷壁ルート ツールロンド北壁を立て続けに現地で出来た友人と登攀し、汗を流す。

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マーターホルン 登頂
「8月11日日」 天候も安定し、シワルッデーより、ハイキングコースをのんびりと歩き、夕方の早いうちに、ヘルンリの山小屋へ着いた。小屋の設備、環境ともバツグンで、あの汚い日本の山小屋とは対象的だ。
「8月12日日」二時頃より辺りが騒がしく、目が覚めてしまう。ガイド連れの登山者がもう出発の準備をして三時には誰もいなくなった。
四時三十分。まだ外は薄暗いが出発準備を整え小屋を出ようとすると、小屋番に呼び止められた。最初は何を言っているのか解らなかったが、身振り手振りを交えながら「登るには時間が遅すぎる、やめろ。」と言っている様だ。
私は困り果てたあげく「アイアム、ジャパニーズガイド」と言うとオーケー、オーケー、と言い残し小屋の奥に消えた。
ヘルンリの小屋から頂上まで、標高差千二百メートル。今日は気楽な登攀なので自然と鼻歌が出てくる。単調な岩場を順調に高度を稼いで行くと、垂直の
チョツト悪い岩場に突き当たる。三時前に出発した、ガイド連れの登山者が四苦八苦して登っている。その横を優越感に浸りながらグイグイと登って行くと、ソルベィの小さな避難小屋が、岩場に張り付いて建っていた。
標高四千メートル。酸素不足の影響なのか、呼吸が荒くなって来た。
少し稜線上を登り、太いロープが氷の下に埋れている北壁を、右にトラバースに入る。アイゼンを着けたくなるが面倒なので、ピッケルのピックを叩き込み、一歩一歩慎重に登ると、眼の前にはさえぎる物が無くなった。頂上だ。
時計を見るとまだ七時三十分。ヘルンリの小屋から三時間掛らず登れた。
話に聞いていた十字架が、イタリア側の山頂に建っている。アイゼンを履き両側が千メートル以上切れ落ちた雪のナイフリッジを、緊張しながら七十〜八十メートル進むと、イタリア側山頂に達した。十字架は風雪さらされ、雷に打たれたのか手を触る気にもなれない程、黒く汚れて建っている。
再度スイス側の頂きに戻り、頂上の岩をピッケルで削り取ってザックに入れ、協力、援助してくれた山仲間達への、ささやかな土産にと持ち帰る事にして、山頂を後に下山を開始した。
十三時。ヘルンリ小屋に降り立ち振り返ると、マッターホルンの上部は隠れ、小雪が風に舞い通りすぎて行く。 たった一人で登ったマッターホルン。
厳しさ、険しさ、苦しさなど少しも感じなかったが、今までの自分には無かった、山登りの楽しさを味わった様な気がした。
もうじき百日以上の、アルプスの贅沢な夏休みも終わってしまう。
母と約束した「生きて帰る」を土産に「9月7日」万博で賑やかな大阪港に帰って来た。 姉の借金を如何するかと考えながら。

北アルプス穂高吊尾根
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厳冬の谷川岳 1の倉沢
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高波の池よりの明星山

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明星山最後の未踏壁P6南壁とP6フランケ

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明星P六南壁 最後の未踏壁 右フェース デレッテシマルート

帰国してまだ二週間。ようやくアルプスボケが抜け始めた九月下旬、「登攀同志会、伊豆」の杉本、瀬川。「登攀同志会、長岡」の小林、田中、風間、久保田と俺の七名が明星山南壁基部の河原に集合した。
今回の標的は、国内では数少ない未踏の大岩壁で、明星山の岩壁の中で最も標高差があり、非常に困難が予想される為に、今だに上部岩壁は誰の手にも汚されずに残った、「ピーク六峰南壁右フェース」の登攀である。
私が今まで育てたクライマー達のクライミング技術の向上と、仲間達相互の交流を図る意味合いを持った登攀計画である。
河原で仲間と雑談していると、「八木下さん。」と声かけて来た若者がいた。
私は見知らぬ若者だし、けげんな顔をしていると「横浜から来た星と嵐同人の長谷川恒男」と自己紹介してから、「何処を登るのですか?」と尋ねて来た。
「ここ真っ直ぐ。」と答えると、困った様な顔をしている。
話を聞くと、彼らもこの岩壁の初登攀を狙って来た、と話す。「俺達は上部要塞の鷹ノ巣ハング目がけてダイレクトに登る予定だ。」と話すと、河原にいる仲間と相談に行き、「右に四十メートルの地点にある縦に走るクラックから、
鷹ノ巣ハングより右にルートを取るのでお願いします。」と頼んできた。
同じ日に同じ岩壁の初登攀を目指してやって来た若者がいたなんて、何かの縁だろう。 俺は「会員の技術向上の為に来たのであり初登攀は付録に過ぎないから、君達の好きな様に登って下さい。お互いに頑張りましょう。」と声をかけたら、丁寧に礼を言い仲間のいる所に小走りに去っていった。
「それ登れ」と仲間達にハッパをかけ登攀準備を急がせる。
瀬川、風間、小林が先発で下部ダイレクトルートのオーバハングに取り付く。
残置ハーケンやボルトを使用して順調に百メートルザイルを伸ばすと、此処からがまだ誰の手にも汚されていない岩壁の始まりである。
手掛かりが無い垂壁にボルトやハーケンを打ち込む根気の要る作業だ。
ボルト一本埋め込むのに二〜三十分。それで稼げる高さは百二十センチ。
三時間半を費やし勝ち得た高さが僅か二十五メートル。西の空が紅く染まると、先発した三名が下降して来た。
今日は俺の出番が無いので小滝川の河原に寝転び仲間達に指示を送りながら、一日のんびりと過ごさせて貰った。
夜半かなり強い雨が降ったが朝には晴れ上がり、気持ちが良い朝が訪れた。
今日は俺も少しは活躍しなければと思い、先発する小林と田中のサポートに回り荷揚げ作業を手伝いながら昨日の最高到達点まで来た。
我が登攀同志会で身長が一番高い小林がトップでボルト打ち、下部要塞の黒いオーバーハングに六本ほどボルトを埋め込み、ハングの出口に近づいた。
出口の上に岩の割れ目を見つけたらしくハーケンを打っている。何かハーケンの音色が悪い。抜けなければいいなと思いながら見上げていると、小林がハーケンにアブミを架けて乗り越そうとした瞬間、案の定、大声と共に空中に大きく舞い上がった。
空中ブランコの如く、気持ち良さそうに岩壁から二メートル離れた空間を漂っている。確保者の田中は「重い、早く何とかしろ。」など、小林を急かせている。俺は指示も送らず知らぬ顔。 宙ぶらりんの小林は、壁に悪態を吐きながら一人空中遊泳を楽しんで?いる。
七〜八分は楽しんだだろうか。身体を大きく振りながら再びオーバーハングに張り付いた。「アーびっくりした。」と言い残し、今度は出口にボルトを埋め込みハング上に消えて行った。
二メートル張り出した下部要塞の黒いオーバーハングを、固定されたザイルを最大限に利用して全員がハング上に集結したのは正午を少し回っていた。
次のピッチはホールド、スタンス共に豊富で比較的楽な岩壁を、田中がトップで二十五メートルは登っただろうか。「落!」と言う声と同時に、こぶし大の落石が風間のヘルメットを直撃した。
ヘルメットの側頭部は陥没して、耳の横から少しではあるが血が滲み出した。
「大丈夫か」と田中が遥か上で心配して声をかけてくる。緊張しているのか、風間は余り痛がりもしないし、意識もしっかりしている。
頭の負傷だからと万が一の事を考え、俺が付き添うから下降しようと勧めたが「俺は登る。」と言って聞かない。
左上に岩壁を六十メートル横断すると、左フェースの登攀終了点の広い中央バンドが有る。 「俺がリードして風間をひとまず中央バンドまで連れて行くからお前達はそのまま登攀を続行しろ。」と言い残して壁のトラバースに入る。
所々微妙なバランスを必要とする所が有るが、さほど苦も無く、ザイル二ピッチで横断に成功。怪我をした風間も動揺している様子も無く順調に横断してきた。 ルート開拓は順調に進んでいる。今日は百二十メートル程新しくルートが切り開かれ、畳一枚位の岩棚に達した。夕闇も追って来たので登攀を切り上げ、風間と俺のいる快適な中央バンドに集結させる。
今日の最高到達点の半坪程の岩棚を、登攀同志会の会報ハイマートの名前を採り「ハイマートテラス」と名付け後世に残す事にした。
今日一日の反省が終ると豪華?な食事が待っている。酒は無いが地上三百メートル上のテラスでのパーティが始まる。此処にいる者は皆、このうるさく我が侭な俺について来てくれた仲間達である。
夜半また雨が降り心配していたが朝方には止み、三日目の朝が訪れた。
まだ上部岩壁は残す所三百メートル以上は有るだろう。
心配したが怪我もたいした事の無かった風間と俺がザイルを組み、ルート開拓にあたる。ハイマートテラスからピナクルの横を快適に四十五メートル登ると、ルートの中で最も技術的に困難で危険な場所にきた。
俺がトップになり、全神経を、指先、足先に集中させながらの登攀である。
余りの悪さにハンマーも振れずハーケンも打てない。四百メートル下には小滝川の河原が待ち構えている。縦に走る巾の広い岩の割れ目にハンマーの柄を差込み、てこの原理でジワリジワリと高度を稼いで行くと、やっと爪先が二センチ程かかるスタンスに達した。ハンマーが振れ、ハーケンも打てる。此処まで三十メートル、ハーケン一本打てず、困難、いや危険な登攀だった。
やっとの事で大きく張り出した鷹ノ巣ハングの真下に、精も根も尽き果て攀じ登って来た。
四メートルも張り出したオーバーハングは岩が崩れ落ちそうに垂れ下がり、脆く正面から突破するには余りにも危険すぎる。
困難は危険で有るが、危険は困難ではない。二メートル程張り出した左側壁より取り付き鷹ノ巣ハングを乗り越すルートに決めて、ハーケンとボルト連打の単調な作業がまた始まる。 ハングでは上に向かってハンマーを振るので、ボルト一本打ち込むのに何度か手を休めなければ成らない。
何本かを埋め込んだがもう正午。明日から俺達は勤務が待っている。
ハングの途中で時間切れになり、再度アタックする事にして岩壁の下降を開始する。全員が小滝川の河原に降り立った時には辺りが薄暗くなり始めていた。
今度こそ完登を、と十一月初めに、新人を一人加え、再度小滝川の河原に立った。先回の最高到達点まで五時間をかけて到達するが、秋の日は短く鷹ノ巣ハングにボルト二本ハーケン二本を打ち込んだだけで時間切れになりビバーク。
夜は冷え込み、すぐ其処まで冬が近づいている。この寒さの中でも、明日の完登を夢みて我が仲間達は大変元気が良い。
今日の完登を誓って、太陽の昇る前に行動を開始した。
トップの風間が、遂に時間のかかるオーバーハングを乗り越え鷹ノ巣ハングの乗り越しに成功した。 まだ上部は悪そうだが、フリークライミング行けそうだ。
トップを交代して難しい凹角状の岩場を半ば強引に越えると、少しは傾斜も落ちだいぶ楽に登れる様になって来た。早いピッチでザイルは頂きにと伸ばされて行く。鷹ノ巣ハングより百四十メートル登ると、ザイルから解放される時が来た。各自思い思いのルートを選びながら百メートル登ると、ピーク六峰の頂上だ。十五時、全員が集結した。
今回の登攀に要した延べ五日間の労いを込めて各自に手を差し伸べてやり、暗くなる前にと、すっかり葉が落ちた西面のブッシュ帯を駆け下った。
この登攀は「登攀同志会」の記録である。
登山雑誌に取り上げられ、登攀者の名前まで全国に知れ渡った。
「登攀同志会」の誰だと名乗れば山の世界ではチヤホヤされ有頂天になっている会員がいる。俺から見ると技量も未熟で余り役に立たない会員が。
自分の力でやり遂げた様な錯覚に陥っている事が気になる。 戒めても聞き入れず、岩場に出かける。これは非常に危険な事である。
偶然に会った、星と嵐同人の長谷川氏達も登攀に成功したと聞き、素直に喜んだ。 初めて会った時にはまだ彼は駆け出しだったが、後に日本を代表するクライマーに成長し、友人として気さくに我が家にも時々遊びに来た。
そんな彼も、ヒマラヤの山中で還らぬ人になってしまった。

遭難 そして 登攀同志会を去る日

一つの山に何回となく山行を繰り返していると、その山の天候や特徴がよくわかるようになる。当会は毎月一の倉沢や明星の岩壁に山行を続けている。
そこで問題になるのが、これらの山々にアタックする会員が、岩場になれ、また、同じルートを、二回、三回とトレースしていくにつれ、安易な気持ちで山行をかさねていないかである。 ふとした気のゆるみがどんなに怖いか。
私達 登山者にとって、山の死は敗北であり、いかなる場合も、いたずらに華美されてはならない。
初心にかえり、基本を学び、計画をしっかりとたてて、より困難な山行をめざしてほしい。井の中のかわずにならず、広く世間を見つめて、未知の山や岩壁に花を咲かせよう。
これは一九七一年八月に発行された、登攀同志会の会報「はいまぁと」二号に掲載された、クラブ代表の俺から会員に寄せたメッセージである。
十月三日、十六時少し廻った頃に、我が家の電話がけたたましく鳴った。
長岡警察署からだった。「お宅の登山クラブに、T君と言う人がいますか?」
と聞いてきた。「確かに会員の中に居ますけど。」と答えると、「実は、妙義山
で遭難したらしいので。」親の住所や、電話番号などを聞いて電話は切れた。
クラブにはT君の登山届は出ていないので、今日は山には行っていない筈だ。
我が登攀同志会では、何処の山に行こうが自由であるが、登山計画書の提出は会員に課せられた最低の義務である。
今日T君が登山に出かけているなど頭の隅にもなかった。それでも確認のためにT君の家に電話を入れると、家族も「昨夜から出かけたきり何処に行っているか判らない。」と心配している様子だ。
今日、登山計画書が出ているのは、明星山の岩登りに出かけているK君とS君のパーティだけなので、他の会員は家に居るはずである。万が一に備えて、山に行っていない会員に電話で、岩登りの出来る支度をして集まるように、と召集をかける。 暗くなり始めた十七時少し過ぎに、今度は糸魚川警察署より電話が入った。「明星山の岩場でお宅の登山クラブのパーティーが宙吊になっている模様だから来て下さい。」と。いまだに彼らと連絡が取れないので遭難した事は間違いなさそうだ。
十七時半頃、再び長岡署から電話が入り、妙義山の遭難は署員の聞き違いで、明星山の遭難であると判明した。
いったい何処からT君の名前が出て来たのか。T君の名前だけが出て、どうしてK君やS君の名前が出て来ないのか。もしかして一緒かも? 誰がどの様にして警察署に届けて呉れたのか。疑問と、これからの救助活動の事で頭の中の整理を付けるには、少々時間が必要だった。
当クラブの会員数は十二名。現地に行ける者が八名。事故の大きさに依るが、もしも人手が足りなくなると大変なので、親交のあるN 山岳会から四名の精鋭に応援を頼み、救助隊を結成して長岡を出発出来たのは、二十一時を少し廻ってしまった。
車の中は、救助に使うザイル十本、ハーケン五十枚、ボルト二十本、カラビナ六十個、捨て縄二十メートル等の登攀用具と、背負子一、寝袋二、食料等でゴッタ返し、それらの用具の確認やら、山に取り残された仲間のことを考えると、頭の中はパニック状態である。
私も今まで何回となく死線をさ迷った経験を持っているが、困難を追求すればする程、危険は増大する。遭難はある程度までは仕方がないが。せめて山に残された仲間達には生き残っていてほしい。
当クラブでは、万が一の岩場事故を想定して、毎年二回救助訓練を行なって来たが、実際に救助活動の経験があるのは私一人で少々不安である。
「より高くより困難を求めて」国内はもとより、海外まで目を向けた登山活動する事を目的に、登攀同志会が誕生して三年半の年月が過ぎようとしている。
会則は、一、現役登山家でなければならない。二、岩壁登攀に行く時は、前日までに必ず登山届を提出する事。三、会員に事故が起きたら必ず協力する事。
これが当会のたった三条の規約である。
会員達の多くは規約を守り、幸い大きな事故に巻き込まれずに、次々と難しい岩壁からの登頂に成功して来たのに。届の出ていないT君が事故に巻き込まれていたら、これまで会員の皆で育て築き上げて来た「登攀同志会」って何だったのだ。
糸魚川警察署に寄って、現場の様子を精細に説明してもらった。

事故現場P5ドーム壁
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事故は、P五ドーム壁で起き、三人が宙ズリ状態であり、一人は動いているが残りの二人は動きが確認出来ないとの事。
地元の山岳会の人も心配して、数人来てくれている。救助活動への参加を申し出てくれたが、何しろ岩壁での行動である。技量の解らない人の参加は二重遭難の危険が付きまとうので、クラブの代表者として申し出を断った。
早朝より救助活動を開始する事にし、警察署と消防署に、搬出してから病院までの救急車の手配や諸々の協力をお願いして、四日一時三十分 明星山に向かう。暗い内に小滝川の河原に降りたが、なかなか夜が明けてくれない。
クラブ員や手伝いを御願いしたN山岳会の人達に、個人的行動は慎み、俺の指示には絶対に従がって下さい、と再度の御願いと隊員の班分けを行なって、最終的準備を完了した。
岩壁がうっすらと見えて来た。私が先頭で東壁ルンゼに入ったが、上部に行くに従がい傾斜が強くなり、確保用ザイルが必要になって来た。
後続の隊員は、救助した仲間を安全かつ敏速に降ろせる様にザイルを固定しながら登ってくる。私とM君がやっとドーム岩壁の基部に辿り着いた。
見上げると、ザイルがオーバーハングから下に強く張られている。恐れていた事が現実に目の前に起こっている。
脆い岩壁を落石に気を付けながら六十メートル登ると、T君がザイルに吊られ小さな岩棚に横たわっている。ヘルメットは割れているが息はしていが、声をかけるが何の反応も無く唸り声だけが岩に響く………
とにかく早く降ろさなければ。岩の割れ目を見つけてハーケンを三本打ち込み、M君の確保でT君を抱きかかえてドームの基部に降り着いた。東壁ルンゼの搬出は七人の隊員に任せて、四人で、首を長くして不安な夜を過しただろう二人の所に救助に向かう。
下からの救助は落石で二重遭難の危険が多すぎると判断して、上から降りて救助活動をする事に決め、左の岩稜からドームの頭に攀じ登る。
ドームの頭から懸垂下降で二十メートル降りると、S君が小さなテラスで救助を待っていた。 彼はザイルが手の平を走った為に出来た擦過傷をしきりに気にしながら、済まなそうな顔をしていたが笑顔も覗く。
彼は今年の一月、此処、明星山P六南壁の正面ルートを私と登っている時に、ボルトが抜けて墜落。腰骨にヒビが入る怪我を負ったばかりだが、その経験が役立っているのか、以外に冷静である。S君は大丈夫だ。
K君の救助に尚も四十メートル下降すると、やっと宙吊り状態のK君を発見する事ができた。生きている。近づくと話は出来るし意外と元気な様子だ。
腕の骨折なのか手が動かないと言うが、幸いその他は大きな怪我も無さそうなどで胸を撫で下ろす。ようやく助け出せる、と勇気とファイトが湧きあがってくる。今までは、仲間達を助け出せるか、又二重遭難を起こしてしまうのではないか、とビクビクしながら隊員達の行動を監視して指揮を取り、一番危ない事は自分で引き受けながら行動して来た。これはクラブの代表で或る限り当り前の事であるが、もう疲労もピークに近づきつつある。
K君を下に降ろした方が早くて楽に救助できるが、浮石が多く、落石による二重遭難が怖い。ここは疲れが見えてきた隊員に頑張って貰うしかない。
六十メートルを人力に頼って引き上げる過酷な重労働が待ち構えている。
K君に私が付き添い、大声を出しながら押し上げると同時に、上の三人がザイルを引く。一回で約五十センチ。微妙なタイミング合せと、体力のいる単調な作業の繰り返しを、もう何十回繰り返しただろうか。
やっと四十メートル引き上げる事ができた。 あと二十メートル引き上げればドームの頭だ。そうすればあとは下降だけなので、少しは体力的に楽になるだろう。もう少し、あとチョット、と互いに励まし合って、とうとう引き上げに成功した。皆、その場に座り込んでしまう。K君の顔にもS君の顔にも笑顔が戻って来たので小し休む事にした。 そう言えば朝から何も口に入れていない。
腹が空いたなど誰も口にも出さなかったし、私も全く空腹を感じなかった。
標高差五百メートルを、四十メートルずつ確保しながらの下降である。幸いの事にK君は、手は使えないが足は大丈夫だし、S君も痛がりながらも手を使
えるので、順調に東壁ルンゼまで下降した。
そこには、T君を下まで降ろした隊員達が、応援に登って来てくれていた。
ここで悲しい知らせを受ける。あの頭の損傷では、と覚悟はしていたが、T君の死を隊員の一人から耳打ちされた。仕方がないで済まされる事では無いが、俺達は精一杯やったではないか。合流した仲間と手分けしてザイルを固定する隊員、K君とS君を降ろす隊員、ザイルを回収して来る隊員とに割り振り、早いピッチで小滝川の河原をめがけて下り始めた。
そこに、頼みもしない某 山岳会員二名が登って来ていた。その人達を安全に下らせる為に余計な苦労を背負いこまされ、イラツキが頂点に達してきた。
応援に来てくれた好意は有り難いことだが、反面で俺はすごく迷惑だと感じていた。 やっと小滝川の河原に降り立った。
警察官や消防署員、その他多くの山友達が出迎えてくれている。
よく頑張った、よくヤッタなど、労いの言葉を掛けられるが、疲れ切った身体の俺は、どんな言葉より今は静かにそっとして置いて欲しかった。
今度の遭難をきっかけに、私の心は毎日揺れ動いていた。山や岩登りが好きで集まった仲間が、何故、如何して、クラブのたった三つの約束事を守ってくれなかったのか。 それに、最近一部の会員に遊びで岩登りをしている者が見受けられる。確かに登山そのもの自体は遊びであろうが、登攀同志会の、「より高く、より困難を求めて」は何処へ行ってしまったのか。
もうこのクラブの存在価値が無くなったのではないか。
この遭難の始末が済んだら、機会を見て会員とじっくり話し合って見よう。
T君の葬儀も終わり、この度の遭難で多大なる御迷惑をかけた皆様に謝罪とお礼をかねて、糸魚川警察署に出向きこの遭難でどうにもふに落ちない事を尋ねて見た。誰が事故を目撃して連絡をくれたのか、そしてどうしてT君の遭難だと分かったのか。ここで初めて衝撃的事実を知らされた。
古参会員の一人が、彼女を連れて明星山の岩場見物に行っていたのである。
遊びに行く事など何ら問題はないが、なぜクラブに遭難の連絡を入れなかったのか、事故を知りながらなぜ救助活動に協力をしなかったか。
登攀同志会を去る日が来た。自分で立ち上げたクラブだが、今、此処で登攀同志会を去る事に未練の欠けらさえ残っていない自分に驚いた。

阿弥陀岳 摩利支天ルンゼ〜中央リッジの登攀

昨年の秋に結婚したばかりの妻を残して、今年の正月もまた山に来てしまった。 彼女も山が大好きな人間で、北アルプスの鹿島鑓ヶ岳を積雪期に天狗尾根から登ったり、井上靖の有名な小説「氷壁」の舞台になった前穂高岳東壁の登攀など、何回かの山登りを一緒に楽しみ、山で結ばれた仲である。
そんな彼女だから、俺の山行きを理解して呉れると勝手に思い込みながら、年明け早々、夜行列車に飛び乗り、信州八ヶ岳の登山基地、茅野に向かう。
何年ぶりかに訪れた厳冬の八ヶ岳である。ここ八ヶ岳はアプローチが短く、入山するのが比較的楽なので、短い日数で冬山の醍醐味を満喫できる。
雪はさほど多く降らないが厳しい寒さで沢の大部分が凍り付き、稜線まで幾つもの大きな氷爆を架け、それらを登るには比較的高度な氷壁登攀の技術が必要である。
数年前の冬、鉾岳ルンゼから横岳へ登っている時に、対岸にそそり立つ阿弥陀岳に大きな氷爆を幾つも架け、北西稜と西稜の間に深く切れ込んだ沢を発見した。 登攀意欲を掻きたてられ、帰宅後に文献でこの沢の登攀記録を探して
見たが、摩利支天ルンゼと言う名前が分かっただけで、摩利支天ルンゼの登攀
記録は全く見つからなく、私はとても魅力を感じていた。
この未知の領域に足を踏み入れるのは、N山岳会のK君とO君と私の三人。
登攀同志会を退会してから、K君とは今まで何回も谷川岳 一の倉沢や穂高岳等の岩場でザイルを結び、苦楽を共にして来た仲である。O君は、N山岳会の新人で、冬の登攀は初めてであり、岩登りの技量も分からず少々心配だったが、彼の意欲を買って同行させる事にした。
私は、一九七二年から日本アルパインガイド協会の会員になり、岩登りの講習会の講師を頼まれたり、岩登りを始めたばかりの人の面倒をみたりで、自分の目指す登山には、気の合った仲間と年数回行く程度に減っていた。
久しぶりに訪れたわくわくする様な登攀に心を躍らせながら、行者小屋の少し下に昨日設営したテントを後にして、よく踏み固められた美濃戸に続く道を十分程下ると、目指す鉾岳ルンゼが原生林の間を縫うように新雪に埋まって、南沢に合流している。
今年は雪が多いのか、膝から腰まで潜るラッセルを交代しながら三十分進むと、最初の氷爆 F一が目の前に姿を現した。
ピッケル、アイスハンマー、アイゼンの前爪二本のコンビネーション登攀で、二十メートル。久しぶりに豪快なアイスクライミングを楽しみながら、F二に続く急な雪壁を、雪崩れの危険を感じずつ百メートル登ると、F二、四十メートルの滝の下に着く。ここは氷柱が空間に五メートル垂れ下がっているだけである。正面の岩壁は脆く、とても攀れる状態ではない。正面突破はあきらめ、右壁から滝の落ち口に這い上がる。
次の氷爆F三、三十五メートルは傾斜が緩く簡単に登れて、少々物足りない。
F四、四十メートル、続いてF五、八メートルも余裕を持ってクリア出来て、F六の下に登って来た。
ここは下部がオーバーハングした二十五メートルの落差がある氷爆だ。
時計は正午を過ぎている。チリ雪崩れが頻繁に頭の上から降り注ぐ氷爆の中を、右手のアイスハンマーのピックを氷に叩き込み、左手に持ったピッケルを思い切り振るう。下で確保しているパートナーのヘルメットに、飛び散った氷片がシャワーの様に降り注いでいる。
万が一の墜落に備えて五メートル置きにスクリューハーケンを埋め込み、ピンクとブルーの二本のザイルを交互にカラビナに架け、真っ直ぐ登る。
四年前に登ったヨーロッパアルプス、ドリュの悪名高きクロアールの登攀を
思い出しながらの一時間で、正面からの突破に成功した。
後続のK君、O君が苦労しながら登って来た。O君は、疲れからだろうか、それとも初めての冬の登攀で緊張しているのか、青白い顔をしている。
なおも新雪の中より青氷が所々に顔を覗かせているルンゼの中を、正面がナイフ状に切れた岩稜をめがけて百メートル、最後の難関バットレスの基部に三人が立った。
ここでO君が訳の分からない言葉を呟き出した。最初は冗談だと思っていたがどうも変だ。私の言葉に返す言葉も正常ではない。この厳冬の登攀で、「暖かいから手袋など要らない。」と投げ出してしまい、思わずK君と顔を見合わせてしまう。 これはヤバイ。彼にとってこの登攀は荷が重すぎたのか。
自分にとっては今まで経験した数々の困難な登攀に比べたら、ここまでの登攀など大した事でないと感じていたが…………
これが経験の差か。ふと頭の中に父親がいつも言っていた「自分の物差しで人を計るな」という言葉が浮かんで来て、妙に気になって仕方ない。
山の世界では、十余年、たえずザイルのトップとして活躍して来たし、今まで同行者を失った事など無い。またプロガイドとしてのプライドもある。
O君をここで失う訳にはいかない。同行者を失う様な失敗は、俺には絶対に許されない。とりあえず彼を落ち着かせなければ。食べ物を与えてしばらく休ませると、多少落ち着きを取り戻して来た。
俺がザイルを張って、O君とK君二人を同時に確保するから、絶えずO君の行動に注意しながら登って来るようにとK君に頼み、上部の岩壁にザイルを伸ばす。冬の太陽が遠くの北アルプスの山並みに沈み辺りが薄暗くなって来た。
寒さも厳しくなり、こんな所で夜を過せばO君はきっと命を落としてしまうだろう。そうすれば、俺が今まで築いて来たプライドがズタズタに切り裂かれてしまう。
幸運にも月の灯りが何とか手掛かり、足がかりを照らしてくれる。何箇所かの困難な登攀を強いられたが、ザイルで四ピッチ百三十メートル、アイゼンをガチャガチャと言わせながらの岩壁登攀と五分程のラッセルで、待望の摩利支天峰に立つことができた。
未知の摩利支天ルンゼからの登攀に成功したのだ。後はO君をいかに安全にテントまで下らせるかだ。 ところが、俺達二人にあれ程心配をかけたO君、頂上に着いた途端に元気を取り戻し、行動も正常になった。今までの振舞いはいったい何だったのだろか。
極度の疲労、極度の不安、極度の緊張が彼をそうさせたのか。
彼には今回が初めての冬山登攀で、俺より何倍も多く貴重な経験と体験を積
んだ事だろう。まだ若い彼が、この経験をこれからの山行きに生かして呉れる事を願って、摩利支天峰を後に阿弥陀岳を目指して腰を上げる。
この阿弥陀岳は俺の登山すべての原点とも言うべき所だ。思い出の一杯詰まった山だ。 十九才の時、初めて冬の岩壁で経験した、立ったまま一夜を明かした岩場の途中でのビバーク、またザイルのトップを初めて任されて緊張して登ったのも此処、阿弥陀岳の広河原奥壁だった。
あの時は同行者が凍傷にやられた事や、また死ぬほど辛いビーバクだった事などを話しながら、月灯りに照らされた阿弥陀岳の頂上より中山尾根を下り、行者小屋の下に張り置いてある今夜の我々の寝ぐらに帰り着いた。
独身の二人を前に、こんな寒いテントの中で眠り、氷壁だ岩壁だと馬鹿げた事に夢中になるより、温かいベッド中の方がどれほど良いかと、冗談とも本音とも取れる言葉を交わしながら冷たい寝袋にもぐりこむ。
摩利支天ルンゼの冬季の登攀は、多分俺たちが最初の記録だろう。そうでなくても十分楽しめたし、自分には価値のある一ページを刻んだ登攀だった。

黒部別山 大タテカビンの登攀
女房にも今の生活にも不満が在る訳では無い。子供も生まれて、それなりの幸せも手に入れている。月に二〜三回は仲間と岩登りをして楽しんでいるのにお前はなぜ今の生活に満足していられないのだ。
一ヶ月程前からベッドに潜り眠る前のひと時、必ず俺の奥底に潜む病原菌が山に行け、山に行こうよと騒ぎ、日増しにその声が大きくなってきた。
お前はどうしてそんなに俺を山に誘いたがるのだ。
名誉を得る為? それもある。栄光を掴み取る為? それもある。それ以上に、未知の世界に踏み入り恐怖に慄きながら成し遂げた時に味わったあの言葉に表せない快感が身体の何処かに染み付いていて、季節の変わり目になると湧き出してくる。
未知の世界に足を踏み入れる為には、如何に困難で危険を伴っていても、この身体で甘受しなければならない。 俺だって人並みに命は惜しい。
今まで考えもしなかった事が頭に浮かんでくる。
俺が死んだら残された妻は如何するだろう? まだあどけない息子は?………
この複雑な心の内を胸の奥に押し込めて黒部渓谷にやって来た。

今回の獲物に選んだのは、登攀記録も乏しく俺には未知の領域黒部別山の大タテカビン岩壁である。今日のパートナーは山岳同人デラシネのK君、最近よくザイルを組み明星山の岩壁や一の倉沢で岩登りを楽しんでいる仲間だ。
目指す岩壁は、大きな石が重なり合う河原から山頂まで標高差八百メートルは在るだろう。下部は傾斜が緩く楽に登れそうだが、中間部からは垂直を超え頭上に威圧的にのし掛かっている。上部はどうなっているか良く見えない。
大きな石に背を持たれながら、どの様にルートを取るか、今日の獲物の岩壁を見つめる目がだんだんと鋭く成って行くのを肌で感じてきた。
この岩壁を登り切る複雑なパズルも徐々に解け始めてきた。
まだ十時、「今日中に登り切れそうだな。」とK君に声をかけると、半信半疑の顔で「あのオーバーハング帯をどうして乗り越す?」と聞いてきた。
「何とか成るよ。」と笑って答えると笑顔が返って来た。
「イクゾー」と自分を奮い立たせて、下部の六十度〜七十度の傾斜が緩いスラブ状の広い壁の中を右に左にと思い思いのルートを探し、中間部のオーバーハング帯の下までザイルも付けずに登って来た。
先ずは一服。黒部川の上には針ノ木岳から中央に赤沢岳、右に爺ガ岳と続く後立山連峰の稜線が、屏風の様に広がっている。
未知の岩壁の真只中にいて、これから困難な部分が始まろうとしているのにいつも感じていた、何かに追われているような恐怖が湧いてこない。
妙に落ち着きがあり急ごうとしない自分に、逆に不安を感じてきた。
見上げるオーバーハング帯に、八十メートルはあろう一本の煙突状の凹角が青空に突き抜けている。此処が取り付きで探し当てたパズルの出口だ。
ザックから九ミリ×四十五メートルのザイルを二本出し、その両末端がK君と俺のゼルブストバンドにしっかりと結ばれた。
友が打つ確保用ハーケンの音がコダマとして山を駆け巡り帰って来る。
「頼む」いつもの通りにK君に声をかけ攀じ登り始めた。
煙突の中を登っている様だ。手掛かりが無くなると靴底を側壁に押し付け背中を反対側の側壁にずり上がる。十五メートルも登るとK君から声が掛かってきた。心配なのだろう。「そろそろハーケンを打って。」と。
股間の間からは、見上げている彼のヘルメットと背部しか見えない。もう既に彼より二メートルも外側にはみ出ている。
思っていたより簡単で、墜落の心配など全く感じず攀じ登って来た。
下を見ると高度感が凄い。黒部川まで四〜五百メートルは有るだろう。
靴底の五分の一程乗せられる安定した足場を確保出来たので、彼の望み通りにハーケンを岩の僅かな隙間に叩き込んでいくと、惚れ惚れとする音色で一打ごとに金属音が高くなり根元まで食い込んでいく。
友は安心したのか、「八木下さん女房子供がいるのだから余り無理しないで。」と冗談を交じえながらに言って来る。悪い奴だ。此処までかなり集中していたのか、登り始めてから家族の事など全く頭に浮かんで来なかったのに。
カラビナをハーケンにセットして二本のザイルを通し先を急ぐと「後十メートル」と残りのザイルの長さが知らされて来る。五メートル攀じると両方の靴底が収まる岩棚が待っていてくれた。落ちる心配の無いK君はザイルを引くのが忙しい程のスピードで攀じ登って来た。
次のピッチは傾斜も少し落ち、見るからに快適そうな登攀だ。
「トップやるか?」と友に聞いたら「八木下さん行って。」と言ってくれたので、内心しめたと思いながら岩の硬い岩壁を楽しみながら豪快に四十メートル登るとオーバーハング帯の上に抜け出した。
取り付き地点から見えなかった上部の岩壁が目の前に広がっている。脆そうな岩ではあるが、傾斜もさほど無く余り問題は無さそうだ。
確保者とザイルに落石の直撃を避ける為、右上に右上にとルートを取りながら四ピッチ百七十メートル攀じ登ると、潅木の中に岩場は消えて登攀が終了してしまった。 楽しい登攀が出来たが、期待していた感動が湧いて来ない。
何かこの岩壁に裏切られた様な気持ちでやるせない。
未知の岩壁を登ったのに、新しいルートを開拓したのに、どうして………
パートナーのK君はまだ四十メートル下で、俺からの「登っていいよ。」の合図を待っている。潅木にザイルを回し「OK」と声をかけると程無く攀じ登って来る友の姿が目に入って来た。満面笑みを浮かべながら近づいて来る友がうらやましく感じられる。友も俺の横に立った。
いつもお決まりの儀式だが、お互い無事に完登出来た事を喜び、手を差し伸べ合い握手を交わす。完登出来たがまだこの計画が完了した訳では無い。
黒部川まで八百メートルの標高差を如何して降りたら良いか。この山には登山道などと言う気が利いたものは無い。
下降出来そうな所を手分けして探すが、すぐに潅木と凄い藪に阻まれて何処を降れば良いかさっぱり見当も付かない。暫らく探したが、結局時間はかかるが登って来たルートを懸垂下降で降りる事に決めて、残りのハーケンの数を数えると二人合わせて十二本。途中に打ち残して来たハーケンを抜いて使えば何とか降り切れるだろう。
四回の懸垂下降を繰り返して中間部のオーバーハング帯の上に来た。
問題はこの下の八十メートル。四十メートル下の岩棚に空中から振り子をして立てるだろうか、不安であるがやるしかない。
最悪の事を考えて一本のザイルで友に確保してもらい、ザイルにぶら下がり岩棚の所まで来た。岩棚まで二メートル。空中ブランコが始まった。
身体を揺すりふり幅をだんだん大きくしていく。岩棚に足は掛かるがまた、空間に引き戻されてしまう。何回目かでやっと手が岩角をがっちり掴んだ。
ハーケンを打ちザイルを固定してあるのでK君は楽に岩棚に降り立つ。
後四十メートルは懸垂下降での空中散歩だ。俺の身体が岩から何メートル離れるか楽しみである。三十メートル降りて来ると四メートルも岩壁から外に飛び出し、思った通り気分は最高である。
オーバーハング帯も無事に降り、下部の岩場の下降を残すだけだ。対岸の赤沢岳の上に夕焼け雲が流れ出し、暗くならない内にと急ピッチで下降。
まだ明るさが残る黒部川の河原に降りる事が出来た。
山に来たのに何か物足りなく侘びしい秋の一日が終ってしまった。
自ら計画をして実行に移し、困難を追求して自分の欲求を満たす為に努力する、そんな十数年間続けて来た俺の登山スタイルを捨て去る日に今日が成るなんて、自分自身も夢にも思わなかった…………

逃避者 山を去る日

厳冬の岩壁で寒さに耐えながらただ夜明けを待ち続ける。
頂だけを見つめ指先に全神経を集中し墜落の恐怖と戦いなが攀じる
その苦痛が増せば増すほど自分の存在感を知り、それに耐え生きている事に満足感を覚えていた男が…………
無謀とも思える困難な岩壁でも必ず登り切ると言う信念を持ち、強い意志で立ち向かい、其の行為を苦ともせずに誇りとして感じていた男が…………
恐れを知らず無鉄砲で夢ばかりを追い求めて、登攀者としての栄光を追い求めて来た男が…………………
挑戦者として山と戦う意志も、炎の様に燃えさかる情熱も、追い求め続けた夢も、濁流のように男の心体を掻き乱しながら通り過ぎた。
些細なきっかけで山の世界に入り、訳の分からない若干十九才の時に、すでに厳冬の岩壁でザイルのトップを経験し、又辛いビバークで俺だけが凍傷も負わずに無傷で生還した事に誇りに思っていた。
何処の山の小さな岩壁でも、今まで経験しなかった困難に出会い、其れを突破する事に全力を尽くし、解決出来た喜びがたまらない快感として心を包み込む。そんな楽しく充実した毎日が続いた二十〜二十二才の頃。
二十三才の時、脳挫傷と言う大怪我をして、ベッドの中で薄汚れた天井の沁
みを数えながら過した日々。少し快方に向かうと、再び山に還れるかと不安の続いた日々。そして三ヶ月もしない内に冬季初登攀と言う偉業を成し遂げたが、代償として、今まで感じた事の無い死と言う得たいの知れない恐怖が心の中に芽生え始めた。
二十四〜二十六才頃の登山は、ヨーロッパアルプスの山に憧れ、針のような山「ドリュ」の大岩壁登攀に夢を求め、その実現の為に、どんな山行にも目的を持って取り組み、自分の登山に価値観を見い出しながら困難な岩壁を攀じ登り、自分の限界を試す登山を数多く続けてきた。
夢を現実に近づける為に、身体をいじめ抜き、努力を続けた長い年月。
念願だったヨーロッパアルプス、長年の夢「ドリュ」の大岩壁からの登攀に成功を収めたが、小学生時代に先生に懐いていたような憧れ、追いかけ続けた夢がいっぺんに吹き飛んでしまった二十七才。
これまで山で築いて来た数々の実績が名声に変わり、俺の意思とは別な所で一人歩きをしている。著名な登山家として登山界に広がり、勝手に有名人に仕立て上げられ、俺の心をくすぐる様になった。
名声とは始末が悪い。どこの山に出かけても、自分の為に登るのでは無く、何か別な事に登山と言う行為を利用している様な気に陥っている。
山に行っても人の目が妙に気になる。他人の目など気にするなと自分に言い聞かせても、得体が知れない何かが全身に圧し掛かってくる。
あれ程憧れていた山に出かける回数も少なくなって来た。その反面で、山行を実行に移そうとする時に、妙に理屈を付けたくなる。
「アルピニズム」の世界に生き、「アルピニスト」としてこの世界で生き続けて行くのがだんだん億劫にも成って来た。このまま先鋭的登山を実践して行くのには、今まで以上に情熱を燃やせる素晴らしい夢を探し出さなければ。
また今以上に肉体を酷使して、死と言う言葉と隣り合わせの世界で生きて行けるだけの気力が、まだ俺の身体に宿して居るだろうか。
ある仲間は山の世界から去り、ある友人は不幸にもアルプスの山の懐に召されて逝ってしまった。友人の葬儀に出かけても、その憔悴した妻の姿を目の前にすると、悔やみの言葉さえ口に出てこない。
俺にだって妻もいる。生まれて間もない子供もいる。決して裕福の生活とは言えないないが、人並みの幸福もある。
それらを捨てアルピニズム「より高く、より困難」を求め続ければ、必ず処
には死と言う世界が待っているはずだ。
過去の名誉や栄光にのうのうとあぐらをかいて生き残っている者は、俺から
見るとアルピニズムの世界から逃亡した敗残兵だ。
経験を話してやるのも良い。自慢話を語るのも良い。過去の栄光に独りで浸っているのも良い。「より高く、より困難を求めて」から逃げ出した者達だ。
今の俺には逃避者の気持ちも少しは分かる様になって来た。
少なくてもアルピニズムの世界から逃避した多くの人達を、卑下する気持ちは消え去った。アルピニズムを追い求めるには、代償が余りにも大きすぎる。
されど、この麻薬の様なアルピニズムの世界から逃げ出すのは容易な事では無い。自分のプライドを捨て去れる、かなりの勇気が………
俺はまだ山を続けて行くべきか? 山から去るべきか? 自問と自答を繰り返し、もがき、苦しみ、眠れない夜が長いこと続いた。
秋のお彼岸を過ぎた頃、そんな俺のもとに、かつて一緒にザイルを組んで岩壁を攀じ登った山友達が、黒部に紅葉でも見に行かないかと誘いに来た。
何年振りだろう、気楽に、困難と無縁な山登りをするなんて。
多少の抵抗と戸惑いを感じながらも、気分転換のチャンスだと思いながら山行の準備を始めると、何か変だ。必ずザックに収まるべき赤いザイルはもちろんの事、登攀用具は全て除外されるし、山小屋に泊まるのでザックは軽く中味がまるっきり違う。まして、山小屋に泊まる事など、俺の十数年の登山人生では凄く贅沢な事だ。
赤や黄色の紅葉に囲まれた室堂から剣御前に登ると、そこは草木も枯れはて日本海から流れる風で頬が冷たく、厳しい冬山がもう其処までやって来ていた。
立山の女性的でなだらかな稜線とは対照的な、男性的でダイナミックな景観が目の前に立ち塞がり、抜ける様な青空を背景に、剣岳が岩肌をむき出して聳えている。 今日中に仙人池まで行かなければならない。
所々に残雪の残る剣沢を下り、小雨が降り出した秋の空を恨みながら原生林の中を再び登って仙人池のほとりに建つ山小屋に着いた時には、あたりは既に暗くなり始めていた。
次の朝、窓辺に置かれた古ぼけたランプの向こうに、白く薄化粧した剣岳が姿を見せ、かつて情熱を燃やして挑んだチンネの岩峰が天を突いている。
そんな素晴らしく綺麗な景色を目の辺りにしても、登りたい、登ろうと言う意欲が湧き出てこない。
帰り路、黒部川の対岸に、過去には夢を懐いた未知の岩場、奥鐘山の大岩壁を目の前にした時も、俺の血が騒ぎださない。
欅平に下る最後の急な道を降りている途中、右足の膝の裏側に痛みを感じ始めた。痛みは増し、家に帰り着く頃には歩行もおぼつか無い程になっていた。
その日から一ヶ月半程過ぎた頃、明星山のまだ手付かずのP五の未踏岩壁を登攀に成功し、下山途中右足の裏側に又歩けない程の痛みが走りだした。
パートナーに迷惑をかけてしまい、これでは山登りなど。
昨日まで色々と悩み苦しんだ事が嘘のようだ。山に行けない、いや、山に行かなくて良いこの上ない素晴らしい口実が出来上がってしまった。
俺は、自分自身の心の中にある登山感「アルピニズム」の世界からやっと脱出する事が出来た。その喜びと開放感で、心を躍らせた。

過ぎた去った日々・・。
登山の世界に足を踏み入れ夢を追い求めた頃の獲物を狙う豹のような輝い目と、未知の世界にどんな事が待ちかまえているかとの期待が、数日前から心を躍らせ、名誉や栄光など無縁の世界で登山人生を送っていた頃が、妙に懐かしくなって来る今日この頃。
今まで経験した事のない、大きくて困難な山。巨大な心の壁にぶち当たり、もがき苦しんで、山の世界から逃避した己の姿を、過ぎ去った歳月がやっと口に出し、笑って他人にも話せるようになった。

山と戯れた青春の日々に「感謝」と言う言葉で表せない程、人様に経験の出来ない多くの心の財産を手に入れた。

過ぎた日に「後悔」と言う二文字は俺の心の中には、全く存在していない。
憧れは持ち続けるもの。 夢は追い求め続けるもの。
貴方は、なぜ苦しく辛い山登りを続けていますか・・?。
貴方は、本当に山が好きで登っていますか・・?。
未知の世界に憧れ、夢ばかり追い求めた男の独り言



posted by JoDeL at 09:22| 登山 情報・記録・写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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