2006年05月18日

アルプスの夏休み

ヨーロッパアルプスの夏休み

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ドロミテアルプス チベッタ北西壁敗退
「6月2日」チベッタ北西壁の巨壁にアタック開始した。
高度差千メートル。垂直の大岩壁に手を懸け、ザイルに結ばれた友と、一歩また一歩と高度を稼ぐ。取付きから七時間、五百メートル程登っただろうか。
暗闇がせまって来たので、今夜の宿は巾三十センチ程の岩棚にきめる。
ハーケンを何本か打ち、カラビナ、ザイルで身体を岩壁に固定して、眠りにつく。夜半、サラサラと言う音で目がさめると、雪が降って来た。
身体と岩壁の間に雪が溜り、何度となく押し出されて、空間に投げ出されそうになる。夜も明けて、ツエルトから顔を出して外を見て驚いた。湿った雪が容赦なく降り続き、完全に白亜の城の中に閉じ込められてしまっていた。
壁からは泡ナダレがシャワーの様に休むひまもなく落ち続けている。残念であるが最初のアタックは失敗に終わり、十回程の懸垂下降を繰り返して岩壁の基部に降り立ち、アレゲの町に逃げ帰った。

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ドロミテアルプス トーレベネチァの登攀
「6月7日」墓石に似た岩峰、トーレベネチァを南壁から登る為に、昨日アルバータの山小屋に入った。
この岩壁は、ドロミテ山群で最難度にランクされたフリークライミングルートで、その困難さ故に登る人が殆んどない。早朝は霧が深く、山小屋からどの方向に山があるのか判らず、三時間も足止めをくらってしまった。
霧が晴れ上がりやっと小屋を後にして南壁の基部に向かったが、あくまでも垂直の岩壁は俺達をあざ笑うかの様に聳え立ち、見れば見る程墓石の様な山で、この大きな岩峰が俺の墓になるのでは、と不吉な予感が脳裏をよぎって行く。
十時、戦闘開始。仲間とトップを交代しながら、右に左にとルートを見つけ
出し、快調なペースで五ピッチ、百五十メートルを攀じ登った。
核芯部、オバーハングが連続する壁が頭上を被い、私達を拒絶するかの様に待ち構えている。クライミングの最難度、六級のフリーだ。K君がトップで被り気味の岩を十五メートル程登った時、突然悲鳴と乾いた金属音が岩壁に響き渡った。 「落ちた」 とっさにザイルを強く握り確保体勢に入る。
次の瞬間、物凄いショックが俺の身体を襲う。ザイルが凄いスピードで手の平を走りだした。ザイルの摩擦で焼けるように手が熱い。ザイルの動きが止まった。 一メートル頭上にK君が青ざめてぶら下がっている。K君を私の居る小さなテラスまで降ろし、意気消沈して声も出ない彼を、必死に励ます。
無理もない事だ、本格的岩登りを初めてまだ二年しか経っていないのだから。
これから先は全部俺がトップを引き受ける。「確保を頼む。」と言い残し、六級のフリークライミングに挑みかかった。
何処まで続くのか垂直とオーバーハングの壁。時には片手で岩の突起を掴み、強引にオーバーハングを乗り越し、小さな岩の凹凸を拾いながら、尺取虫の様に少しずつ身体を引き上げて行く。K君が落ちた所より百二十メートルを攀じ登った。 後四十メートル登りきれば、少しは傾斜も落ちる。正念場を迎えた。
右上に横断気味にルートを取りながら進むが、今まで以上に手掛かりが乏しく極端に難しい。三百メートル下には、私を呼んでいるかの様に岩の散乱したガレ場が待ち構えている。
此処で墜落したら・・ 運良くハーケンが抜けずに持ちこたえ、俺を支えてくれても、俺の身体は岩壁から四〜五メートル離れて漂うだろう。其れから脱出できるだけの体力がまだ俺には残っているだろうか。
先程より、指、腕、ふくらはぎが限界を越え、今にも壁から剥ぎ落とされそうだ。こんな生と死を分ける戦いなどを、好き好んで大金を使い外国まで来て行なう馬鹿が、この世の中に何人いるだろうか。
僅か四十メートルの核芯部を一時間かけてクリアし終えた頃には、太陽が山並みに消え夕闇が迫って来た。
明け方の憎き霧よ、お前のせいで、こんなチッポケな不安定極まりない岩棚で一夜を送るなんて。カラカラの喉の渇きを癒してくれる水さえ一滴も無い。
友と会話を交わすのもおっくうな、辛い夜になってしまった。
この不安定な岩棚にも朝が訪れた。寒さで身体の動きが悪い。暖かい太陽が岩壁に降り注ぐのを待って登り始める。傾斜も少し落ち快適な岩を、元気を取り戻したK君と交互にトップをしながら百五十メートル程登ると、前をさえぎる物が何も無い青い空間が広がった。遂に、あの巨大な墓石の上に立ったのだ。
あの、チベッタ北西壁の悔しい敗退。焦りとモヤモヤする気持ちから、やっと解放された。
澄みきった濃紺の空。そっと頬を撫ぜて行く初夏のドロミテの風が、疲れた身体に心地よく通り過ぎて行く。K君と固い握手をかわし、互いの健闘と、無事に登頂出来た事を喜んだ。日本をあとして二十日、とうとうドロミテアルプスの最難度にランクされたトーレベネチアの南壁からの登頂に、日本人で初めて俺達二人は成功した。
この遠征に協力してくれた山仲間に、やっと良い知らせの便りが書ける事を喜び、「ドリュ」の登攀を目指して、「6月21日」イタリア北部、ドロミテアルプスの山都アレゲの街を後に、ミラノからジュネーブ経由でドリュの登山基地シャモニーにやって来た。
雄大で白い山容を誇るモンブランの姿とは対象的に、天を鋭く突き刺す赤みを帯びた花崗岩の針峰群、それをえぐる様に食い込む氷河。ここは素晴らしい岩と氷だけの別天地である。
夢に見、憧れていたドリュは、エギューベルトの白き峰を背景にその存在を誇示するかのように、大岩壁が南東の空に突き上げている。シャモニーに来てから毎日の様に午後は雨が降り、イライラの募る日が続いた。
僅かな晴天を利用して、「6月27日」にはエギュー・デュ・ミディの南壁、七月三日にはエギュー・デュ・ペイユのパピヨン岩稜などアプローチが比較的短く一日で登れる山の登攀と、岩登りの練習場ガイアンの岩場でトレーニングしながら、安定した天候が訪れる事を祈り、ひたすら待ち続ける毎日だ。
やっと訪れた晴天。その壮大な大岩壁、南西岩稜からの登攀のチャンスがやっと訪れた。 このドリュの大岩壁は、モンブラン山群の中では最も困難な岩壁で高度の登山技術が必要とされ、アルピニスト達の憧れの的である。
今回の遠征に於ける最大の目標、目的は、この針峰ドリュの登攀であった。

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ドリュ 南西岩稜の登攀
登山電車の終点モンタンベール駅よりメールドグラス氷河を横切り、ドリュの基部に大きな岩が何重にも積み重なったガレ場を登って来た。
「7月6日」四時三十分、俺とドリュとの戦いは、暗く陰険なクロアールの氷壁登攀から始まった。 取り付きは四十〜五十度の比較的傾斜の緩いクロアールを、十二本爪アイゼンの前爪二本を使い、左手にアイスバイル、右手にアイスメスのコンビネーションで、西壁の下までいっきに二百メートル駆け登る。
見上げる氷壁は更に傾斜が増してきた。K君とザイルを結び、六十〜八十度の氷壁に一直線にルートを採る。しばらく登ると、余りにも硬い氷壁に、K君のアイゼンが悲鳴を上げてしまった。前二本の爪が折れ曲がり、この氷壁登攀ではザイルのトップを務める事が不可能になってしまった。
早く登りきらないとこのクロアールは非常に危険である。気温の上昇と共に上部岩壁の凍り付いていた岩が剥げ落ち、狭いクロアールの中は落石の通路になってしまう。 胸がつかえそうな傾斜のブルーアイスの壁にアイゼンの前歯二本を蹴り込み、アイスバイルを叩き込んで、一歩また一歩と、時間に追われながらの氷壁との戦いが、果てし無く繰り返されて行く。
先程より少しずつ山が目を覚し始めた。落石の鈍い音がこのクロアールにこだまし始めた。俺のふくらはぎが硬直しケイレンを起こし始めた。
足を休ませたいが、こんな所で休息の時間を費やすと落石の餌食となる事は確実で、そんな事で還らぬ人となってしまうなんて、まっぴらゴメンだ。
苦しく非常に困難だった氷壁登攀も終わりに近づいてきた。渾身の力でアイスバイル振るうと、砕け散った氷片が確保しているK君のヘルメットを叩く。
俺の力では、もう限界に近い登攀を続けて来た。何とか落石の恐怖が付きまとうクロアールからの脱出に成功した。
頭上には、明るい花崗岩の岩壁が天を突いて聳え立っている。
これより頂上まで、標高差八百メートル。垂直の岩壁を右に左にとルートを探しながら、ザイルで四ピッチ、百五十メートル程登ると、オーバーハングに行く手を遮られた。 ハーケンを打ち、カラビナにザイルを通して強引に乗越しにかかる。右手で掴んだ岩が剥がれた。と同時に私の体が宙に舞った。
「墜落」頭が下になり落ちていく。苦労して登って来た恐怖のクロアールの氷壁が目に飛び込んで来る。意外と冷静な頭の中は、ザックが肩から外れて落ちなければ良いな等と心配している。 長い時間(?)が過ぎ、腰と肩に強いショックが来た。落下距離十メートルの宇宙遊泳は二〜三秒で終わった。
空中に逆吊りで漂っている自分に腹立しく、ますますファイトが湧きでて来る。神が味方したのか? 悪運が強いのか? 幸い怪我は腕の打撲と手の甲の擦過傷ぐらいで、登る事にさして影響はない。
まだ先は長い、急がなければ。何ピッチ登っただろうか。すでに太陽は西の山に沈み、あたりが簿暗くなってきたので、ビバーク サイトを探さなければならないと思いながら登っていると、幸いすぐに足を伸ばせる岩棚が見つかり、快適な七夕の前夜祭を迎えることができた。
空一面が星また星。正面には星明かりで巨大なシルエットを描くモンブラン山群が並び、眼下には暖かそうなシャモニーの街の灯が輝いていた。
「7月7日」夜が明けた。メールドグラス氷河をはさんで、グランド・シャルモの北壁が登攀意欲を湧かせるように天を突き、炎の岩稜の向こうには、雪がビッシリ付いたグランド・ジョラスの北壁が魅力的な姿を現している。
見上げる壁は、まだ垂壁とオーバーハングの連続である。早朝より、二百メートル程登っただろうか。K君がトップで、垂直の壁からオーバーハングをじわじわと攀じ登って行く。二十五メートル程私の手から繰り出されたザイルの動きが、突然止まった。しばらくの静寂が続いた。突然かん高い悲鳴。見上げると、黒い物体が青空に浮かぶ。K君が落ちた。とっさに身構える。手の平をザイルが走る。ザイルを思い切り握り締める。ザイルの動きが止まった。
見上げると、頭上十メートルに空中ブランコのように左右に気持ち良さそうに揺れている。「大丈夫?」と声を掛けると、心なしか元気の無い声ではあるが「大丈夫。」とはっきりした声が返って来たので安堵する。
「あと少し、もう一踏ん張り」と自分に言い聞かせながら必死で攀じ登るが、非情にも太陽がモンブランに沈み、また夜になってしまった。
七夕の夜だと言うのに最悪の夜を迎えた。身体をザイルで岩壁に固定し、立ったままの格好で一夜を過さなければならない。食事と言えば、火器を使用出来ないために、持参したインスタントのスープも飲めず、オブマルテーと言うチョコレート菓子の携帯食を少し口に入れるだけの粗末な物だ。
夜半より織り姫(?)、が強い風を伴いやって来た。
叩き突けるアラレ。その上カミナリまで歓迎の花火を鳴らしている。 とうとう恐れていたドリュの嵐がやって来たのだ。俺達二人は自然の脅威にさらされて成すすべも無く、岩壁に張り付いた侭の格好で、じっと嵐の通り過ぎるのをただ待つしか手がなかった。
「7月8日」長く厳しかった夜が明け、信じられない様な青空が広がっている。
出発が早い。動きの鈍い身体で八十メートルを攀じ登ると広いテラスが目前に現れた。 西壁ルートと合流して南西岩稜が終了する地点である。昨夜と今朝の食事を一度に腹に収め、頂上をめざす。
さらに垂直の岩壁を百五十メートル程登った所で、再び雷鳴が轟き始めた。
またドリュの嵐が襲って来たのだ。回りの岩稜は、下から上に猛烈な勢いで閃光が絶え間なく走り、身体は感電して、髪の毛が引き千切られるように痛い。大粒のアラレが容赦なく身体を叩く。まるで地獄絵の真只中に放り込まれたようで、何も出来ない。俺の人生もこのカミナリに打たれて終わりか、と何度も考え、恐怖と強風で身動きも出来ずにじっと耐え続けた。
幸運にも、暴れ狂った嵐も一時間程で通り過ぎて行った。今まで何事も無かったかの様に穏やかな太陽が戻って来た。俺達は生き延びている。こんな所に長居は禁物と、早々に頂きを目指し登攀を開始した。
十四時、とうとう夢に見た「エギュー・デェ・ドリュ」の頂きに立った。
あれほど憧れていたドリュの登攀だったのに、何の感動も感激も湧いてこない。 何年か前に八ヶ岳の冬季初登攀に成功した時も今回と同じ様な経験をしている。 一体これは何なのだろうか・・
頂きを後に、長い懸垂下降に移るが、疲れ切った身体には下降も辛い。四百メートルも降りただろうか、また夜になってしまった。今日中に下界に下りる積りで居たので、食べ物が何も残っていない。食事の仕度をする必要もなく、早々にツェルトを頭から被り横になる。
「7月8日」 早朝から下降を始めて間もなく、エギュー・ベルト南面から流れ落ちる氷河に降り立ち、氷で腹の足しにして下降を急ぐ。メールドグラス氷河を横切りながら、次の目標グランド・ジョラス北壁を見上げ、モンタンベール駅に重い足取りで辿り着いた。そこで飲んだ、一杯たった二フランのコカ・コーラ。この世にこんな美味しい物が存在するなんて!
登山電車でシャモニーの街に降り立ったのは、午後も早い時間だった。
何年も前から憧れて、そして夢に見て、日本を立つ前から自分に課した最大の目標、目的であった「ドリュの登攀」も、もう夢ではなくなり、過ぎし日の思い出になってしまった。
栄光を手に入れ、名誉も手に入った。だが同時に夢も憧れも失ってしまった。
テントに帰り見上げるドリュの針峰は、何ごとも無かったかのように、夕焼けに紅く染まり聳え立っている。
陽がモンブラン山群に沈み、少しずつ色を失って行くドリュを、安堵と疲労で動くのも億劫な身体で、ただじっと見上げていた。
この年は、モンブランアルプスは天候に恵まれず、15日間、テントでゴロゴロしている生活だった。
体調の優れないと言うK君を残し、日帰りの出来る岩壁を探し、「7月24日」モンブラン山群の向かい側に位置する、ブレバン山群に向かいにアレート・ド・チャペルと言う三百メートルの快適で景色の素晴らしい岩壁を登り「7月26日」にもエギュー・ド・レムの北北東カンテの豪快な岩登りルート、「7月28日氷壁ルート ツールロンド北壁を立て続けに現地で出来た友人と登攀し、汗を流す。

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マーターホルン 登頂
「8月11日日」 天候も安定し、シワルッデーより、ハイキングコースをのんびりと歩き、夕方の早いうちに、ヘルンリの山小屋へ着いた。小屋の設備、環境ともバツグンで、あの汚い日本の山小屋とは対象的だ。
「8月12日日」二時頃より辺りが騒がしく、目が覚めてしまう。ガイド連れの登山者がもう出発の準備をして三時には誰もいなくなった。
四時三十分。まだ外は薄暗いが出発準備を整え小屋を出ようとすると、小屋番に呼び止められた。最初は何を言っているのか解らなかったが、身振り手振りを交えながら「登るには時間が遅すぎる、やめろ。」と言っている様だ。
私は困り果てたあげく「アイアム、ジャパニーズガイド」と言うとオーケー、オーケー、と言い残し小屋の奥に消えた。
ヘルンリの小屋から頂上まで、標高差千二百メートル。今日は気楽な登攀なので自然と鼻歌が出てくる。単調な岩場を順調に高度を稼いで行くと、垂直の
チョツト悪い岩場に突き当たる。三時前に出発した、ガイド連れの登山者が四苦八苦して登っている。その横を優越感に浸りながらグイグイと登って行くと、ソルベィの小さな避難小屋が、岩場に張り付いて建っていた。
標高四千メートル。酸素不足の影響なのか、呼吸が荒くなって来た。
少し稜線上を登り、太いロープが氷の下に埋れている北壁を、右にトラバースに入る。アイゼンを着けたくなるが面倒なので、ピッケルのピックを叩き込み、一歩一歩慎重に登ると、眼の前にはさえぎる物が無くなった。頂上だ。
時計を見るとまだ七時三十分。ヘルンリの小屋から三時間掛らず登れた。
話に聞いていた十字架が、イタリア側の山頂に建っている。アイゼンを履き両側が千メートル以上切れ落ちた雪のナイフリッジを、緊張しながら七十〜八十メートル進むと、イタリア側山頂に達した。十字架は風雪さらされ、雷に打たれたのか手を触る気にもなれない程、黒く汚れて建っている。
再度スイス側の頂きに戻り、頂上の岩をピッケルで削り取ってザックに入れ、協力、援助してくれた山仲間達への、ささやかな土産にと持ち帰る事にして、山頂を後に下山を開始した。
十三時。ヘルンリ小屋に降り立ち振り返ると、マッターホルンの上部は隠れ、小雪が風に舞い通りすぎて行く。 たった一人で登ったマッターホルン。
厳しさ、険しさ、苦しさなど少しも感じなかったが、今までの自分には無かった、山登りの楽しさを味わった様な気がした。
もうじき百日以上の、アルプスの贅沢な夏休みも終わってしまう。
母と約束した「生きて帰る」を土産に「9月7日」万博で賑やかな大阪港に帰って来た。 姉の借金を如何するかと考えながら。

北アルプス穂高吊尾根
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厳冬の谷川岳 1の倉沢
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高波の池よりの明星山

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明星山最後の未踏壁P6南壁とP6フランケ

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明星P六南壁 最後の未踏壁 右フェース デレッテシマルート

帰国してまだ二週間。ようやくアルプスボケが抜け始めた九月下旬、「登攀同志会、伊豆」の杉本、瀬川。「登攀同志会、長岡」の小林、田中、風間、久保田と俺の七名が明星山南壁基部の河原に集合した。
今回の標的は、国内では数少ない未踏の大岩壁で、明星山の岩壁の中で最も標高差があり、非常に困難が予想される為に、今だに上部岩壁は誰の手にも汚されずに残った、「ピーク六峰南壁右フェース」の登攀である。
私が今まで育てたクライマー達のクライミング技術の向上と、仲間達相互の交流を図る意味合いを持った登攀計画である。
河原で仲間と雑談していると、「八木下さん。」と声かけて来た若者がいた。
私は見知らぬ若者だし、けげんな顔をしていると「横浜から来た星と嵐同人の長谷川恒男」と自己紹介してから、「何処を登るのですか?」と尋ねて来た。
「ここ真っ直ぐ。」と答えると、困った様な顔をしている。
話を聞くと、彼らもこの岩壁の初登攀を狙って来た、と話す。「俺達は上部要塞の鷹ノ巣ハング目がけてダイレクトに登る予定だ。」と話すと、河原にいる仲間と相談に行き、「右に四十メートルの地点にある縦に走るクラックから、
鷹ノ巣ハングより右にルートを取るのでお願いします。」と頼んできた。
同じ日に同じ岩壁の初登攀を目指してやって来た若者がいたなんて、何かの縁だろう。 俺は「会員の技術向上の為に来たのであり初登攀は付録に過ぎないから、君達の好きな様に登って下さい。お互いに頑張りましょう。」と声をかけたら、丁寧に礼を言い仲間のいる所に小走りに去っていった。
「それ登れ」と仲間達にハッパをかけ登攀準備を急がせる。
瀬川、風間、小林が先発で下部ダイレクトルートのオーバハングに取り付く。
残置ハーケンやボルトを使用して順調に百メートルザイルを伸ばすと、此処からがまだ誰の手にも汚されていない岩壁の始まりである。
手掛かりが無い垂壁にボルトやハーケンを打ち込む根気の要る作業だ。
ボルト一本埋め込むのに二〜三十分。それで稼げる高さは百二十センチ。
三時間半を費やし勝ち得た高さが僅か二十五メートル。西の空が紅く染まると、先発した三名が下降して来た。
今日は俺の出番が無いので小滝川の河原に寝転び仲間達に指示を送りながら、一日のんびりと過ごさせて貰った。
夜半かなり強い雨が降ったが朝には晴れ上がり、気持ちが良い朝が訪れた。
今日は俺も少しは活躍しなければと思い、先発する小林と田中のサポートに回り荷揚げ作業を手伝いながら昨日の最高到達点まで来た。
我が登攀同志会で身長が一番高い小林がトップでボルト打ち、下部要塞の黒いオーバーハングに六本ほどボルトを埋め込み、ハングの出口に近づいた。
出口の上に岩の割れ目を見つけたらしくハーケンを打っている。何かハーケンの音色が悪い。抜けなければいいなと思いながら見上げていると、小林がハーケンにアブミを架けて乗り越そうとした瞬間、案の定、大声と共に空中に大きく舞い上がった。
空中ブランコの如く、気持ち良さそうに岩壁から二メートル離れた空間を漂っている。確保者の田中は「重い、早く何とかしろ。」など、小林を急かせている。俺は指示も送らず知らぬ顔。 宙ぶらりんの小林は、壁に悪態を吐きながら一人空中遊泳を楽しんで?いる。
七〜八分は楽しんだだろうか。身体を大きく振りながら再びオーバーハングに張り付いた。「アーびっくりした。」と言い残し、今度は出口にボルトを埋め込みハング上に消えて行った。
二メートル張り出した下部要塞の黒いオーバーハングを、固定されたザイルを最大限に利用して全員がハング上に集結したのは正午を少し回っていた。
次のピッチはホールド、スタンス共に豊富で比較的楽な岩壁を、田中がトップで二十五メートルは登っただろうか。「落!」と言う声と同時に、こぶし大の落石が風間のヘルメットを直撃した。
ヘルメットの側頭部は陥没して、耳の横から少しではあるが血が滲み出した。
「大丈夫か」と田中が遥か上で心配して声をかけてくる。緊張しているのか、風間は余り痛がりもしないし、意識もしっかりしている。
頭の負傷だからと万が一の事を考え、俺が付き添うから下降しようと勧めたが「俺は登る。」と言って聞かない。
左上に岩壁を六十メートル横断すると、左フェースの登攀終了点の広い中央バンドが有る。 「俺がリードして風間をひとまず中央バンドまで連れて行くからお前達はそのまま登攀を続行しろ。」と言い残して壁のトラバースに入る。
所々微妙なバランスを必要とする所が有るが、さほど苦も無く、ザイル二ピッチで横断に成功。怪我をした風間も動揺している様子も無く順調に横断してきた。 ルート開拓は順調に進んでいる。今日は百二十メートル程新しくルートが切り開かれ、畳一枚位の岩棚に達した。夕闇も追って来たので登攀を切り上げ、風間と俺のいる快適な中央バンドに集結させる。
今日の最高到達点の半坪程の岩棚を、登攀同志会の会報ハイマートの名前を採り「ハイマートテラス」と名付け後世に残す事にした。
今日一日の反省が終ると豪華?な食事が待っている。酒は無いが地上三百メートル上のテラスでのパーティが始まる。此処にいる者は皆、このうるさく我が侭な俺について来てくれた仲間達である。
夜半また雨が降り心配していたが朝方には止み、三日目の朝が訪れた。
まだ上部岩壁は残す所三百メートル以上は有るだろう。
心配したが怪我もたいした事の無かった風間と俺がザイルを組み、ルート開拓にあたる。ハイマートテラスからピナクルの横を快適に四十五メートル登ると、ルートの中で最も技術的に困難で危険な場所にきた。
俺がトップになり、全神経を、指先、足先に集中させながらの登攀である。
余りの悪さにハンマーも振れずハーケンも打てない。四百メートル下には小滝川の河原が待ち構えている。縦に走る巾の広い岩の割れ目にハンマーの柄を差込み、てこの原理でジワリジワリと高度を稼いで行くと、やっと爪先が二センチ程かかるスタンスに達した。ハンマーが振れ、ハーケンも打てる。此処まで三十メートル、ハーケン一本打てず、困難、いや危険な登攀だった。
やっとの事で大きく張り出した鷹ノ巣ハングの真下に、精も根も尽き果て攀じ登って来た。
四メートルも張り出したオーバーハングは岩が崩れ落ちそうに垂れ下がり、脆く正面から突破するには余りにも危険すぎる。
困難は危険で有るが、危険は困難ではない。二メートル程張り出した左側壁より取り付き鷹ノ巣ハングを乗り越すルートに決めて、ハーケンとボルト連打の単調な作業がまた始まる。 ハングでは上に向かってハンマーを振るので、ボルト一本打ち込むのに何度か手を休めなければ成らない。
何本かを埋め込んだがもう正午。明日から俺達は勤務が待っている。
ハングの途中で時間切れになり、再度アタックする事にして岩壁の下降を開始する。全員が小滝川の河原に降り立った時には辺りが薄暗くなり始めていた。
今度こそ完登を、と十一月初めに、新人を一人加え、再度小滝川の河原に立った。先回の最高到達点まで五時間をかけて到達するが、秋の日は短く鷹ノ巣ハングにボルト二本ハーケン二本を打ち込んだだけで時間切れになりビバーク。
夜は冷え込み、すぐ其処まで冬が近づいている。この寒さの中でも、明日の完登を夢みて我が仲間達は大変元気が良い。
今日の完登を誓って、太陽の昇る前に行動を開始した。
トップの風間が、遂に時間のかかるオーバーハングを乗り越え鷹ノ巣ハングの乗り越しに成功した。 まだ上部は悪そうだが、フリークライミング行けそうだ。
トップを交代して難しい凹角状の岩場を半ば強引に越えると、少しは傾斜も落ちだいぶ楽に登れる様になって来た。早いピッチでザイルは頂きにと伸ばされて行く。鷹ノ巣ハングより百四十メートル登ると、ザイルから解放される時が来た。各自思い思いのルートを選びながら百メートル登ると、ピーク六峰の頂上だ。十五時、全員が集結した。
今回の登攀に要した延べ五日間の労いを込めて各自に手を差し伸べてやり、暗くなる前にと、すっかり葉が落ちた西面のブッシュ帯を駆け下った。
この登攀は「登攀同志会」の記録である。
登山雑誌に取り上げられ、登攀者の名前まで全国に知れ渡った。
「登攀同志会」の誰だと名乗れば山の世界ではチヤホヤされ有頂天になっている会員がいる。俺から見ると技量も未熟で余り役に立たない会員が。
自分の力でやり遂げた様な錯覚に陥っている事が気になる。 戒めても聞き入れず、岩場に出かける。これは非常に危険な事である。
偶然に会った、星と嵐同人の長谷川氏達も登攀に成功したと聞き、素直に喜んだ。 初めて会った時にはまだ彼は駆け出しだったが、後に日本を代表するクライマーに成長し、友人として気さくに我が家にも時々遊びに来た。
そんな彼も、ヒマラヤの山中で還らぬ人になってしまった。

遭難 そして 登攀同志会を去る日

一つの山に何回となく山行を繰り返していると、その山の天候や特徴がよくわかるようになる。当会は毎月一の倉沢や明星の岩壁に山行を続けている。
そこで問題になるのが、これらの山々にアタックする会員が、岩場になれ、また、同じルートを、二回、三回とトレースしていくにつれ、安易な気持ちで山行をかさねていないかである。 ふとした気のゆるみがどんなに怖いか。
私達 登山者にとって、山の死は敗北であり、いかなる場合も、いたずらに華美されてはならない。
初心にかえり、基本を学び、計画をしっかりとたてて、より困難な山行をめざしてほしい。井の中のかわずにならず、広く世間を見つめて、未知の山や岩壁に花を咲かせよう。
これは一九七一年八月に発行された、登攀同志会の会報「はいまぁと」二号に掲載された、クラブ代表の俺から会員に寄せたメッセージである。
十月三日、十六時少し廻った頃に、我が家の電話がけたたましく鳴った。
長岡警察署からだった。「お宅の登山クラブに、T君と言う人がいますか?」
と聞いてきた。「確かに会員の中に居ますけど。」と答えると、「実は、妙義山
で遭難したらしいので。」親の住所や、電話番号などを聞いて電話は切れた。
クラブにはT君の登山届は出ていないので、今日は山には行っていない筈だ。
我が登攀同志会では、何処の山に行こうが自由であるが、登山計画書の提出は会員に課せられた最低の義務である。
今日T君が登山に出かけているなど頭の隅にもなかった。それでも確認のためにT君の家に電話を入れると、家族も「昨夜から出かけたきり何処に行っているか判らない。」と心配している様子だ。
今日、登山計画書が出ているのは、明星山の岩登りに出かけているK君とS君のパーティだけなので、他の会員は家に居るはずである。万が一に備えて、山に行っていない会員に電話で、岩登りの出来る支度をして集まるように、と召集をかける。 暗くなり始めた十七時少し過ぎに、今度は糸魚川警察署より電話が入った。「明星山の岩場でお宅の登山クラブのパーティーが宙吊になっている模様だから来て下さい。」と。いまだに彼らと連絡が取れないので遭難した事は間違いなさそうだ。
十七時半頃、再び長岡署から電話が入り、妙義山の遭難は署員の聞き違いで、明星山の遭難であると判明した。
いったい何処からT君の名前が出て来たのか。T君の名前だけが出て、どうしてK君やS君の名前が出て来ないのか。もしかして一緒かも? 誰がどの様にして警察署に届けて呉れたのか。疑問と、これからの救助活動の事で頭の中の整理を付けるには、少々時間が必要だった。
当クラブの会員数は十二名。現地に行ける者が八名。事故の大きさに依るが、もしも人手が足りなくなると大変なので、親交のあるN 山岳会から四名の精鋭に応援を頼み、救助隊を結成して長岡を出発出来たのは、二十一時を少し廻ってしまった。
車の中は、救助に使うザイル十本、ハーケン五十枚、ボルト二十本、カラビナ六十個、捨て縄二十メートル等の登攀用具と、背負子一、寝袋二、食料等でゴッタ返し、それらの用具の確認やら、山に取り残された仲間のことを考えると、頭の中はパニック状態である。
私も今まで何回となく死線をさ迷った経験を持っているが、困難を追求すればする程、危険は増大する。遭難はある程度までは仕方がないが。せめて山に残された仲間達には生き残っていてほしい。
当クラブでは、万が一の岩場事故を想定して、毎年二回救助訓練を行なって来たが、実際に救助活動の経験があるのは私一人で少々不安である。
「より高くより困難を求めて」国内はもとより、海外まで目を向けた登山活動する事を目的に、登攀同志会が誕生して三年半の年月が過ぎようとしている。
会則は、一、現役登山家でなければならない。二、岩壁登攀に行く時は、前日までに必ず登山届を提出する事。三、会員に事故が起きたら必ず協力する事。
これが当会のたった三条の規約である。
会員達の多くは規約を守り、幸い大きな事故に巻き込まれずに、次々と難しい岩壁からの登頂に成功して来たのに。届の出ていないT君が事故に巻き込まれていたら、これまで会員の皆で育て築き上げて来た「登攀同志会」って何だったのだ。
糸魚川警察署に寄って、現場の様子を精細に説明してもらった。

事故現場P5ドーム壁
明星ドーム壁.JPG
事故は、P五ドーム壁で起き、三人が宙ズリ状態であり、一人は動いているが残りの二人は動きが確認出来ないとの事。
地元の山岳会の人も心配して、数人来てくれている。救助活動への参加を申し出てくれたが、何しろ岩壁での行動である。技量の解らない人の参加は二重遭難の危険が付きまとうので、クラブの代表者として申し出を断った。
早朝より救助活動を開始する事にし、警察署と消防署に、搬出してから病院までの救急車の手配や諸々の協力をお願いして、四日一時三十分 明星山に向かう。暗い内に小滝川の河原に降りたが、なかなか夜が明けてくれない。
クラブ員や手伝いを御願いしたN山岳会の人達に、個人的行動は慎み、俺の指示には絶対に従がって下さい、と再度の御願いと隊員の班分けを行なって、最終的準備を完了した。
岩壁がうっすらと見えて来た。私が先頭で東壁ルンゼに入ったが、上部に行くに従がい傾斜が強くなり、確保用ザイルが必要になって来た。
後続の隊員は、救助した仲間を安全かつ敏速に降ろせる様にザイルを固定しながら登ってくる。私とM君がやっとドーム岩壁の基部に辿り着いた。
見上げると、ザイルがオーバーハングから下に強く張られている。恐れていた事が現実に目の前に起こっている。
脆い岩壁を落石に気を付けながら六十メートル登ると、T君がザイルに吊られ小さな岩棚に横たわっている。ヘルメットは割れているが息はしていが、声をかけるが何の反応も無く唸り声だけが岩に響く………
とにかく早く降ろさなければ。岩の割れ目を見つけてハーケンを三本打ち込み、M君の確保でT君を抱きかかえてドームの基部に降り着いた。東壁ルンゼの搬出は七人の隊員に任せて、四人で、首を長くして不安な夜を過しただろう二人の所に救助に向かう。
下からの救助は落石で二重遭難の危険が多すぎると判断して、上から降りて救助活動をする事に決め、左の岩稜からドームの頭に攀じ登る。
ドームの頭から懸垂下降で二十メートル降りると、S君が小さなテラスで救助を待っていた。 彼はザイルが手の平を走った為に出来た擦過傷をしきりに気にしながら、済まなそうな顔をしていたが笑顔も覗く。
彼は今年の一月、此処、明星山P六南壁の正面ルートを私と登っている時に、ボルトが抜けて墜落。腰骨にヒビが入る怪我を負ったばかりだが、その経験が役立っているのか、以外に冷静である。S君は大丈夫だ。
K君の救助に尚も四十メートル下降すると、やっと宙吊り状態のK君を発見する事ができた。生きている。近づくと話は出来るし意外と元気な様子だ。
腕の骨折なのか手が動かないと言うが、幸いその他は大きな怪我も無さそうなどで胸を撫で下ろす。ようやく助け出せる、と勇気とファイトが湧きあがってくる。今までは、仲間達を助け出せるか、又二重遭難を起こしてしまうのではないか、とビクビクしながら隊員達の行動を監視して指揮を取り、一番危ない事は自分で引き受けながら行動して来た。これはクラブの代表で或る限り当り前の事であるが、もう疲労もピークに近づきつつある。
K君を下に降ろした方が早くて楽に救助できるが、浮石が多く、落石による二重遭難が怖い。ここは疲れが見えてきた隊員に頑張って貰うしかない。
六十メートルを人力に頼って引き上げる過酷な重労働が待ち構えている。
K君に私が付き添い、大声を出しながら押し上げると同時に、上の三人がザイルを引く。一回で約五十センチ。微妙なタイミング合せと、体力のいる単調な作業の繰り返しを、もう何十回繰り返しただろうか。
やっと四十メートル引き上げる事ができた。 あと二十メートル引き上げればドームの頭だ。そうすればあとは下降だけなので、少しは体力的に楽になるだろう。もう少し、あとチョット、と互いに励まし合って、とうとう引き上げに成功した。皆、その場に座り込んでしまう。K君の顔にもS君の顔にも笑顔が戻って来たので小し休む事にした。 そう言えば朝から何も口に入れていない。
腹が空いたなど誰も口にも出さなかったし、私も全く空腹を感じなかった。
標高差五百メートルを、四十メートルずつ確保しながらの下降である。幸いの事にK君は、手は使えないが足は大丈夫だし、S君も痛がりながらも手を使
えるので、順調に東壁ルンゼまで下降した。
そこには、T君を下まで降ろした隊員達が、応援に登って来てくれていた。
ここで悲しい知らせを受ける。あの頭の損傷では、と覚悟はしていたが、T君の死を隊員の一人から耳打ちされた。仕方がないで済まされる事では無いが、俺達は精一杯やったではないか。合流した仲間と手分けしてザイルを固定する隊員、K君とS君を降ろす隊員、ザイルを回収して来る隊員とに割り振り、早いピッチで小滝川の河原をめがけて下り始めた。
そこに、頼みもしない某 山岳会員二名が登って来ていた。その人達を安全に下らせる為に余計な苦労を背負いこまされ、イラツキが頂点に達してきた。
応援に来てくれた好意は有り難いことだが、反面で俺はすごく迷惑だと感じていた。 やっと小滝川の河原に降り立った。
警察官や消防署員、その他多くの山友達が出迎えてくれている。
よく頑張った、よくヤッタなど、労いの言葉を掛けられるが、疲れ切った身体の俺は、どんな言葉より今は静かにそっとして置いて欲しかった。
今度の遭難をきっかけに、私の心は毎日揺れ動いていた。山や岩登りが好きで集まった仲間が、何故、如何して、クラブのたった三つの約束事を守ってくれなかったのか。 それに、最近一部の会員に遊びで岩登りをしている者が見受けられる。確かに登山そのもの自体は遊びであろうが、登攀同志会の、「より高く、より困難を求めて」は何処へ行ってしまったのか。
もうこのクラブの存在価値が無くなったのではないか。
この遭難の始末が済んだら、機会を見て会員とじっくり話し合って見よう。
T君の葬儀も終わり、この度の遭難で多大なる御迷惑をかけた皆様に謝罪とお礼をかねて、糸魚川警察署に出向きこの遭難でどうにもふに落ちない事を尋ねて見た。誰が事故を目撃して連絡をくれたのか、そしてどうしてT君の遭難だと分かったのか。ここで初めて衝撃的事実を知らされた。
古参会員の一人が、彼女を連れて明星山の岩場見物に行っていたのである。
遊びに行く事など何ら問題はないが、なぜクラブに遭難の連絡を入れなかったのか、事故を知りながらなぜ救助活動に協力をしなかったか。
登攀同志会を去る日が来た。自分で立ち上げたクラブだが、今、此処で登攀同志会を去る事に未練の欠けらさえ残っていない自分に驚いた。

阿弥陀岳 摩利支天ルンゼ〜中央リッジの登攀

昨年の秋に結婚したばかりの妻を残して、今年の正月もまた山に来てしまった。 彼女も山が大好きな人間で、北アルプスの鹿島鑓ヶ岳を積雪期に天狗尾根から登ったり、井上靖の有名な小説「氷壁」の舞台になった前穂高岳東壁の登攀など、何回かの山登りを一緒に楽しみ、山で結ばれた仲である。
そんな彼女だから、俺の山行きを理解して呉れると勝手に思い込みながら、年明け早々、夜行列車に飛び乗り、信州八ヶ岳の登山基地、茅野に向かう。
何年ぶりかに訪れた厳冬の八ヶ岳である。ここ八ヶ岳はアプローチが短く、入山するのが比較的楽なので、短い日数で冬山の醍醐味を満喫できる。
雪はさほど多く降らないが厳しい寒さで沢の大部分が凍り付き、稜線まで幾つもの大きな氷爆を架け、それらを登るには比較的高度な氷壁登攀の技術が必要である。
数年前の冬、鉾岳ルンゼから横岳へ登っている時に、対岸にそそり立つ阿弥陀岳に大きな氷爆を幾つも架け、北西稜と西稜の間に深く切れ込んだ沢を発見した。 登攀意欲を掻きたてられ、帰宅後に文献でこの沢の登攀記録を探して
見たが、摩利支天ルンゼと言う名前が分かっただけで、摩利支天ルンゼの登攀
記録は全く見つからなく、私はとても魅力を感じていた。
この未知の領域に足を踏み入れるのは、N山岳会のK君とO君と私の三人。
登攀同志会を退会してから、K君とは今まで何回も谷川岳 一の倉沢や穂高岳等の岩場でザイルを結び、苦楽を共にして来た仲である。O君は、N山岳会の新人で、冬の登攀は初めてであり、岩登りの技量も分からず少々心配だったが、彼の意欲を買って同行させる事にした。
私は、一九七二年から日本アルパインガイド協会の会員になり、岩登りの講習会の講師を頼まれたり、岩登りを始めたばかりの人の面倒をみたりで、自分の目指す登山には、気の合った仲間と年数回行く程度に減っていた。
久しぶりに訪れたわくわくする様な登攀に心を躍らせながら、行者小屋の少し下に昨日設営したテントを後にして、よく踏み固められた美濃戸に続く道を十分程下ると、目指す鉾岳ルンゼが原生林の間を縫うように新雪に埋まって、南沢に合流している。
今年は雪が多いのか、膝から腰まで潜るラッセルを交代しながら三十分進むと、最初の氷爆 F一が目の前に姿を現した。
ピッケル、アイスハンマー、アイゼンの前爪二本のコンビネーション登攀で、二十メートル。久しぶりに豪快なアイスクライミングを楽しみながら、F二に続く急な雪壁を、雪崩れの危険を感じずつ百メートル登ると、F二、四十メートルの滝の下に着く。ここは氷柱が空間に五メートル垂れ下がっているだけである。正面の岩壁は脆く、とても攀れる状態ではない。正面突破はあきらめ、右壁から滝の落ち口に這い上がる。
次の氷爆F三、三十五メートルは傾斜が緩く簡単に登れて、少々物足りない。
F四、四十メートル、続いてF五、八メートルも余裕を持ってクリア出来て、F六の下に登って来た。
ここは下部がオーバーハングした二十五メートルの落差がある氷爆だ。
時計は正午を過ぎている。チリ雪崩れが頻繁に頭の上から降り注ぐ氷爆の中を、右手のアイスハンマーのピックを氷に叩き込み、左手に持ったピッケルを思い切り振るう。下で確保しているパートナーのヘルメットに、飛び散った氷片がシャワーの様に降り注いでいる。
万が一の墜落に備えて五メートル置きにスクリューハーケンを埋め込み、ピンクとブルーの二本のザイルを交互にカラビナに架け、真っ直ぐ登る。
四年前に登ったヨーロッパアルプス、ドリュの悪名高きクロアールの登攀を
思い出しながらの一時間で、正面からの突破に成功した。
後続のK君、O君が苦労しながら登って来た。O君は、疲れからだろうか、それとも初めての冬の登攀で緊張しているのか、青白い顔をしている。
なおも新雪の中より青氷が所々に顔を覗かせているルンゼの中を、正面がナイフ状に切れた岩稜をめがけて百メートル、最後の難関バットレスの基部に三人が立った。
ここでO君が訳の分からない言葉を呟き出した。最初は冗談だと思っていたがどうも変だ。私の言葉に返す言葉も正常ではない。この厳冬の登攀で、「暖かいから手袋など要らない。」と投げ出してしまい、思わずK君と顔を見合わせてしまう。 これはヤバイ。彼にとってこの登攀は荷が重すぎたのか。
自分にとっては今まで経験した数々の困難な登攀に比べたら、ここまでの登攀など大した事でないと感じていたが…………
これが経験の差か。ふと頭の中に父親がいつも言っていた「自分の物差しで人を計るな」という言葉が浮かんで来て、妙に気になって仕方ない。
山の世界では、十余年、たえずザイルのトップとして活躍して来たし、今まで同行者を失った事など無い。またプロガイドとしてのプライドもある。
O君をここで失う訳にはいかない。同行者を失う様な失敗は、俺には絶対に許されない。とりあえず彼を落ち着かせなければ。食べ物を与えてしばらく休ませると、多少落ち着きを取り戻して来た。
俺がザイルを張って、O君とK君二人を同時に確保するから、絶えずO君の行動に注意しながら登って来るようにとK君に頼み、上部の岩壁にザイルを伸ばす。冬の太陽が遠くの北アルプスの山並みに沈み辺りが薄暗くなって来た。
寒さも厳しくなり、こんな所で夜を過せばO君はきっと命を落としてしまうだろう。そうすれば、俺が今まで築いて来たプライドがズタズタに切り裂かれてしまう。
幸運にも月の灯りが何とか手掛かり、足がかりを照らしてくれる。何箇所かの困難な登攀を強いられたが、ザイルで四ピッチ百三十メートル、アイゼンをガチャガチャと言わせながらの岩壁登攀と五分程のラッセルで、待望の摩利支天峰に立つことができた。
未知の摩利支天ルンゼからの登攀に成功したのだ。後はO君をいかに安全にテントまで下らせるかだ。 ところが、俺達二人にあれ程心配をかけたO君、頂上に着いた途端に元気を取り戻し、行動も正常になった。今までの振舞いはいったい何だったのだろか。
極度の疲労、極度の不安、極度の緊張が彼をそうさせたのか。
彼には今回が初めての冬山登攀で、俺より何倍も多く貴重な経験と体験を積
んだ事だろう。まだ若い彼が、この経験をこれからの山行きに生かして呉れる事を願って、摩利支天峰を後に阿弥陀岳を目指して腰を上げる。
この阿弥陀岳は俺の登山すべての原点とも言うべき所だ。思い出の一杯詰まった山だ。 十九才の時、初めて冬の岩壁で経験した、立ったまま一夜を明かした岩場の途中でのビバーク、またザイルのトップを初めて任されて緊張して登ったのも此処、阿弥陀岳の広河原奥壁だった。
あの時は同行者が凍傷にやられた事や、また死ぬほど辛いビーバクだった事などを話しながら、月灯りに照らされた阿弥陀岳の頂上より中山尾根を下り、行者小屋の下に張り置いてある今夜の我々の寝ぐらに帰り着いた。
独身の二人を前に、こんな寒いテントの中で眠り、氷壁だ岩壁だと馬鹿げた事に夢中になるより、温かいベッド中の方がどれほど良いかと、冗談とも本音とも取れる言葉を交わしながら冷たい寝袋にもぐりこむ。
摩利支天ルンゼの冬季の登攀は、多分俺たちが最初の記録だろう。そうでなくても十分楽しめたし、自分には価値のある一ページを刻んだ登攀だった。

黒部別山 大タテカビンの登攀
女房にも今の生活にも不満が在る訳では無い。子供も生まれて、それなりの幸せも手に入れている。月に二〜三回は仲間と岩登りをして楽しんでいるのにお前はなぜ今の生活に満足していられないのだ。
一ヶ月程前からベッドに潜り眠る前のひと時、必ず俺の奥底に潜む病原菌が山に行け、山に行こうよと騒ぎ、日増しにその声が大きくなってきた。
お前はどうしてそんなに俺を山に誘いたがるのだ。
名誉を得る為? それもある。栄光を掴み取る為? それもある。それ以上に、未知の世界に踏み入り恐怖に慄きながら成し遂げた時に味わったあの言葉に表せない快感が身体の何処かに染み付いていて、季節の変わり目になると湧き出してくる。
未知の世界に足を踏み入れる為には、如何に困難で危険を伴っていても、この身体で甘受しなければならない。 俺だって人並みに命は惜しい。
今まで考えもしなかった事が頭に浮かんでくる。
俺が死んだら残された妻は如何するだろう? まだあどけない息子は?………
この複雑な心の内を胸の奥に押し込めて黒部渓谷にやって来た。

今回の獲物に選んだのは、登攀記録も乏しく俺には未知の領域黒部別山の大タテカビン岩壁である。今日のパートナーは山岳同人デラシネのK君、最近よくザイルを組み明星山の岩壁や一の倉沢で岩登りを楽しんでいる仲間だ。
目指す岩壁は、大きな石が重なり合う河原から山頂まで標高差八百メートルは在るだろう。下部は傾斜が緩く楽に登れそうだが、中間部からは垂直を超え頭上に威圧的にのし掛かっている。上部はどうなっているか良く見えない。
大きな石に背を持たれながら、どの様にルートを取るか、今日の獲物の岩壁を見つめる目がだんだんと鋭く成って行くのを肌で感じてきた。
この岩壁を登り切る複雑なパズルも徐々に解け始めてきた。
まだ十時、「今日中に登り切れそうだな。」とK君に声をかけると、半信半疑の顔で「あのオーバーハング帯をどうして乗り越す?」と聞いてきた。
「何とか成るよ。」と笑って答えると笑顔が返って来た。
「イクゾー」と自分を奮い立たせて、下部の六十度〜七十度の傾斜が緩いスラブ状の広い壁の中を右に左にと思い思いのルートを探し、中間部のオーバーハング帯の下までザイルも付けずに登って来た。
先ずは一服。黒部川の上には針ノ木岳から中央に赤沢岳、右に爺ガ岳と続く後立山連峰の稜線が、屏風の様に広がっている。
未知の岩壁の真只中にいて、これから困難な部分が始まろうとしているのにいつも感じていた、何かに追われているような恐怖が湧いてこない。
妙に落ち着きがあり急ごうとしない自分に、逆に不安を感じてきた。
見上げるオーバーハング帯に、八十メートルはあろう一本の煙突状の凹角が青空に突き抜けている。此処が取り付きで探し当てたパズルの出口だ。
ザックから九ミリ×四十五メートルのザイルを二本出し、その両末端がK君と俺のゼルブストバンドにしっかりと結ばれた。
友が打つ確保用ハーケンの音がコダマとして山を駆け巡り帰って来る。
「頼む」いつもの通りにK君に声をかけ攀じ登り始めた。
煙突の中を登っている様だ。手掛かりが無くなると靴底を側壁に押し付け背中を反対側の側壁にずり上がる。十五メートルも登るとK君から声が掛かってきた。心配なのだろう。「そろそろハーケンを打って。」と。
股間の間からは、見上げている彼のヘルメットと背部しか見えない。もう既に彼より二メートルも外側にはみ出ている。
思っていたより簡単で、墜落の心配など全く感じず攀じ登って来た。
下を見ると高度感が凄い。黒部川まで四〜五百メートルは有るだろう。
靴底の五分の一程乗せられる安定した足場を確保出来たので、彼の望み通りにハーケンを岩の僅かな隙間に叩き込んでいくと、惚れ惚れとする音色で一打ごとに金属音が高くなり根元まで食い込んでいく。
友は安心したのか、「八木下さん女房子供がいるのだから余り無理しないで。」と冗談を交じえながらに言って来る。悪い奴だ。此処までかなり集中していたのか、登り始めてから家族の事など全く頭に浮かんで来なかったのに。
カラビナをハーケンにセットして二本のザイルを通し先を急ぐと「後十メートル」と残りのザイルの長さが知らされて来る。五メートル攀じると両方の靴底が収まる岩棚が待っていてくれた。落ちる心配の無いK君はザイルを引くのが忙しい程のスピードで攀じ登って来た。
次のピッチは傾斜も少し落ち、見るからに快適そうな登攀だ。
「トップやるか?」と友に聞いたら「八木下さん行って。」と言ってくれたので、内心しめたと思いながら岩の硬い岩壁を楽しみながら豪快に四十メートル登るとオーバーハング帯の上に抜け出した。
取り付き地点から見えなかった上部の岩壁が目の前に広がっている。脆そうな岩ではあるが、傾斜もさほど無く余り問題は無さそうだ。
確保者とザイルに落石の直撃を避ける為、右上に右上にとルートを取りながら四ピッチ百七十メートル攀じ登ると、潅木の中に岩場は消えて登攀が終了してしまった。 楽しい登攀が出来たが、期待していた感動が湧いて来ない。
何かこの岩壁に裏切られた様な気持ちでやるせない。
未知の岩壁を登ったのに、新しいルートを開拓したのに、どうして………
パートナーのK君はまだ四十メートル下で、俺からの「登っていいよ。」の合図を待っている。潅木にザイルを回し「OK」と声をかけると程無く攀じ登って来る友の姿が目に入って来た。満面笑みを浮かべながら近づいて来る友がうらやましく感じられる。友も俺の横に立った。
いつもお決まりの儀式だが、お互い無事に完登出来た事を喜び、手を差し伸べ合い握手を交わす。完登出来たがまだこの計画が完了した訳では無い。
黒部川まで八百メートルの標高差を如何して降りたら良いか。この山には登山道などと言う気が利いたものは無い。
下降出来そうな所を手分けして探すが、すぐに潅木と凄い藪に阻まれて何処を降れば良いかさっぱり見当も付かない。暫らく探したが、結局時間はかかるが登って来たルートを懸垂下降で降りる事に決めて、残りのハーケンの数を数えると二人合わせて十二本。途中に打ち残して来たハーケンを抜いて使えば何とか降り切れるだろう。
四回の懸垂下降を繰り返して中間部のオーバーハング帯の上に来た。
問題はこの下の八十メートル。四十メートル下の岩棚に空中から振り子をして立てるだろうか、不安であるがやるしかない。
最悪の事を考えて一本のザイルで友に確保してもらい、ザイルにぶら下がり岩棚の所まで来た。岩棚まで二メートル。空中ブランコが始まった。
身体を揺すりふり幅をだんだん大きくしていく。岩棚に足は掛かるがまた、空間に引き戻されてしまう。何回目かでやっと手が岩角をがっちり掴んだ。
ハーケンを打ちザイルを固定してあるのでK君は楽に岩棚に降り立つ。
後四十メートルは懸垂下降での空中散歩だ。俺の身体が岩から何メートル離れるか楽しみである。三十メートル降りて来ると四メートルも岩壁から外に飛び出し、思った通り気分は最高である。
オーバーハング帯も無事に降り、下部の岩場の下降を残すだけだ。対岸の赤沢岳の上に夕焼け雲が流れ出し、暗くならない内にと急ピッチで下降。
まだ明るさが残る黒部川の河原に降りる事が出来た。
山に来たのに何か物足りなく侘びしい秋の一日が終ってしまった。
自ら計画をして実行に移し、困難を追求して自分の欲求を満たす為に努力する、そんな十数年間続けて来た俺の登山スタイルを捨て去る日に今日が成るなんて、自分自身も夢にも思わなかった…………

逃避者 山を去る日

厳冬の岩壁で寒さに耐えながらただ夜明けを待ち続ける。
頂だけを見つめ指先に全神経を集中し墜落の恐怖と戦いなが攀じる
その苦痛が増せば増すほど自分の存在感を知り、それに耐え生きている事に満足感を覚えていた男が…………
無謀とも思える困難な岩壁でも必ず登り切ると言う信念を持ち、強い意志で立ち向かい、其の行為を苦ともせずに誇りとして感じていた男が…………
恐れを知らず無鉄砲で夢ばかりを追い求めて、登攀者としての栄光を追い求めて来た男が…………………
挑戦者として山と戦う意志も、炎の様に燃えさかる情熱も、追い求め続けた夢も、濁流のように男の心体を掻き乱しながら通り過ぎた。
些細なきっかけで山の世界に入り、訳の分からない若干十九才の時に、すでに厳冬の岩壁でザイルのトップを経験し、又辛いビバークで俺だけが凍傷も負わずに無傷で生還した事に誇りに思っていた。
何処の山の小さな岩壁でも、今まで経験しなかった困難に出会い、其れを突破する事に全力を尽くし、解決出来た喜びがたまらない快感として心を包み込む。そんな楽しく充実した毎日が続いた二十〜二十二才の頃。
二十三才の時、脳挫傷と言う大怪我をして、ベッドの中で薄汚れた天井の沁
みを数えながら過した日々。少し快方に向かうと、再び山に還れるかと不安の続いた日々。そして三ヶ月もしない内に冬季初登攀と言う偉業を成し遂げたが、代償として、今まで感じた事の無い死と言う得たいの知れない恐怖が心の中に芽生え始めた。
二十四〜二十六才頃の登山は、ヨーロッパアルプスの山に憧れ、針のような山「ドリュ」の大岩壁登攀に夢を求め、その実現の為に、どんな山行にも目的を持って取り組み、自分の登山に価値観を見い出しながら困難な岩壁を攀じ登り、自分の限界を試す登山を数多く続けてきた。
夢を現実に近づける為に、身体をいじめ抜き、努力を続けた長い年月。
念願だったヨーロッパアルプス、長年の夢「ドリュ」の大岩壁からの登攀に成功を収めたが、小学生時代に先生に懐いていたような憧れ、追いかけ続けた夢がいっぺんに吹き飛んでしまった二十七才。
これまで山で築いて来た数々の実績が名声に変わり、俺の意思とは別な所で一人歩きをしている。著名な登山家として登山界に広がり、勝手に有名人に仕立て上げられ、俺の心をくすぐる様になった。
名声とは始末が悪い。どこの山に出かけても、自分の為に登るのでは無く、何か別な事に登山と言う行為を利用している様な気に陥っている。
山に行っても人の目が妙に気になる。他人の目など気にするなと自分に言い聞かせても、得体が知れない何かが全身に圧し掛かってくる。
あれ程憧れていた山に出かける回数も少なくなって来た。その反面で、山行を実行に移そうとする時に、妙に理屈を付けたくなる。
「アルピニズム」の世界に生き、「アルピニスト」としてこの世界で生き続けて行くのがだんだん億劫にも成って来た。このまま先鋭的登山を実践して行くのには、今まで以上に情熱を燃やせる素晴らしい夢を探し出さなければ。
また今以上に肉体を酷使して、死と言う言葉と隣り合わせの世界で生きて行けるだけの気力が、まだ俺の身体に宿して居るだろうか。
ある仲間は山の世界から去り、ある友人は不幸にもアルプスの山の懐に召されて逝ってしまった。友人の葬儀に出かけても、その憔悴した妻の姿を目の前にすると、悔やみの言葉さえ口に出てこない。
俺にだって妻もいる。生まれて間もない子供もいる。決して裕福の生活とは言えないないが、人並みの幸福もある。
それらを捨てアルピニズム「より高く、より困難」を求め続ければ、必ず処
には死と言う世界が待っているはずだ。
過去の名誉や栄光にのうのうとあぐらをかいて生き残っている者は、俺から
見るとアルピニズムの世界から逃亡した敗残兵だ。
経験を話してやるのも良い。自慢話を語るのも良い。過去の栄光に独りで浸っているのも良い。「より高く、より困難を求めて」から逃げ出した者達だ。
今の俺には逃避者の気持ちも少しは分かる様になって来た。
少なくてもアルピニズムの世界から逃避した多くの人達を、卑下する気持ちは消え去った。アルピニズムを追い求めるには、代償が余りにも大きすぎる。
されど、この麻薬の様なアルピニズムの世界から逃げ出すのは容易な事では無い。自分のプライドを捨て去れる、かなりの勇気が………
俺はまだ山を続けて行くべきか? 山から去るべきか? 自問と自答を繰り返し、もがき、苦しみ、眠れない夜が長いこと続いた。
秋のお彼岸を過ぎた頃、そんな俺のもとに、かつて一緒にザイルを組んで岩壁を攀じ登った山友達が、黒部に紅葉でも見に行かないかと誘いに来た。
何年振りだろう、気楽に、困難と無縁な山登りをするなんて。
多少の抵抗と戸惑いを感じながらも、気分転換のチャンスだと思いながら山行の準備を始めると、何か変だ。必ずザックに収まるべき赤いザイルはもちろんの事、登攀用具は全て除外されるし、山小屋に泊まるのでザックは軽く中味がまるっきり違う。まして、山小屋に泊まる事など、俺の十数年の登山人生では凄く贅沢な事だ。
赤や黄色の紅葉に囲まれた室堂から剣御前に登ると、そこは草木も枯れはて日本海から流れる風で頬が冷たく、厳しい冬山がもう其処までやって来ていた。
立山の女性的でなだらかな稜線とは対照的な、男性的でダイナミックな景観が目の前に立ち塞がり、抜ける様な青空を背景に、剣岳が岩肌をむき出して聳えている。 今日中に仙人池まで行かなければならない。
所々に残雪の残る剣沢を下り、小雨が降り出した秋の空を恨みながら原生林の中を再び登って仙人池のほとりに建つ山小屋に着いた時には、あたりは既に暗くなり始めていた。
次の朝、窓辺に置かれた古ぼけたランプの向こうに、白く薄化粧した剣岳が姿を見せ、かつて情熱を燃やして挑んだチンネの岩峰が天を突いている。
そんな素晴らしく綺麗な景色を目の辺りにしても、登りたい、登ろうと言う意欲が湧き出てこない。
帰り路、黒部川の対岸に、過去には夢を懐いた未知の岩場、奥鐘山の大岩壁を目の前にした時も、俺の血が騒ぎださない。
欅平に下る最後の急な道を降りている途中、右足の膝の裏側に痛みを感じ始めた。痛みは増し、家に帰り着く頃には歩行もおぼつか無い程になっていた。
その日から一ヶ月半程過ぎた頃、明星山のまだ手付かずのP五の未踏岩壁を登攀に成功し、下山途中右足の裏側に又歩けない程の痛みが走りだした。
パートナーに迷惑をかけてしまい、これでは山登りなど。
昨日まで色々と悩み苦しんだ事が嘘のようだ。山に行けない、いや、山に行かなくて良いこの上ない素晴らしい口実が出来上がってしまった。
俺は、自分自身の心の中にある登山感「アルピニズム」の世界からやっと脱出する事が出来た。その喜びと開放感で、心を躍らせた。

過ぎた去った日々・・。
登山の世界に足を踏み入れ夢を追い求めた頃の獲物を狙う豹のような輝い目と、未知の世界にどんな事が待ちかまえているかとの期待が、数日前から心を躍らせ、名誉や栄光など無縁の世界で登山人生を送っていた頃が、妙に懐かしくなって来る今日この頃。
今まで経験した事のない、大きくて困難な山。巨大な心の壁にぶち当たり、もがき苦しんで、山の世界から逃避した己の姿を、過ぎ去った歳月がやっと口に出し、笑って他人にも話せるようになった。

山と戯れた青春の日々に「感謝」と言う言葉で表せない程、人様に経験の出来ない多くの心の財産を手に入れた。

過ぎた日に「後悔」と言う二文字は俺の心の中には、全く存在していない。
憧れは持ち続けるもの。 夢は追い求め続けるもの。
貴方は、なぜ苦しく辛い山登りを続けていますか・・?。
貴方は、本当に山が好きで登っていますか・・?。
未知の世界に憧れ、夢ばかり追い求めた男の独り言



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